砂上の楼閣としての信念「鴨長明」「柳田国男」「小林秀雄」個人思想の死生観について【人生の午後】

バリ島の祈り

近年のことですが、以前から興味深く感じていた「人生の午後」という言葉が、最近より意味深く感じられるようになりました。恐らくユングの「人生の正午」がもとになり、後年の心理学者が使い始めた言葉なのかもしれません。人間は朝陽と伴に生まれ、人生の午前には肉体も社会性も成長します。「人生の午後」には死が意識されはじめ、人生の午前に形成された価値観だけでは対応できなくなる。やがて夕陽から日没に死が訪れる。夜は死んだあとの世界でしょうか。復活や輪廻など宗教的影響もあり、また次の朝生まれ変わる、こんなイメージかもしれません。

小さいうちに死に関する強い体験をすれば、年齢に関係なく「人生の午後」に入ると思われます。多くの人は「生老病死」など家族や自身にそれらの危機が訪れ「死」を意識せざる得なくなるのは中高年からかもしれません。身近な家族や親戚が亡くなる体験を繰り返すからです。また成人病を家族や自身もわずらうようになる年齢です。私も単にそのような年齢に達したのかもしれません。自然災害や人為災害による劇的な死の経験はないのですが、戦争や大きな事件などの劇的な「死」がなくても、平和な時代であっても、いずれ訪れる家族の死や自身の死を避けることはできません。

私はすでに50代中盤にさしかかっていますが、かつて実家で3世代6人で暮らしていました。昭和であり田舎であり親戚も皆元気であり、現在からはとても賑やかな時代であったと感じています。現在ではその6人家族の生き残りは私だけとなりました。自然災害や人為災害を体験したわけではないのですが、老齢と一般的な成人病において、親は平均寿命に近く兄弟は早目に亡くなりました。

戦争や自然災害で劇的な突然の死がなくても、「人生の午後」は誰にでも遅かれ早かれ意識されるようです。当たり前の話ですが、生まれたときから家族の人数は減っていきます。家族より自身の死のほうが早ければ「一人だけ生き残った」という感覚をもたないで済みます。しかし自分以外の家族がやがて誰かが一人生き残り、やはりその家族は消滅します。平和な平時の世の中であっても、誰にでも「人生の午後」はやってくるようです。

自分が結婚してできた、いわば新しい家族も同様です。幸いにも大きな病気や事故もなく済んでいます。進学もあり仕事もあり新しい家族もバラバラに暮らすようになりました。進学ができたり、仕事につけたりであり、幸運なことの連続であり感謝しなければなりません。しかし、もう少しで一人暮らしになることも現実です。新し家族も幸運であり大過なく過ごせても、いずれ一人となり消滅することでしょう。どのようにしても訪れる現実なので絶望を感じるまえに、願わくば自分自身のことは、まずは「もののあわれ」として感じられたらいいなと思っています。

さらには最近では、20年経営していた会社を事実上の廃業としました。コロナ禍の影響もありますが、ちょうどいい機会とも思えました。賑やかかなときは大勢のスタッフとたくさんのお客様に恵まれました。これもまた感謝しかありません。しかし会社の撤退戦の仕事をしていると思い出しますが、大人数で仕事をしていると、人間関係の問題やストレスが増えるのも事実です。とても仕事が忙しい時期がながくなると「早く仕事を辞めたい」と繰り返し思っていました。忙しいときは辛く重い疲労の連続なので、それはそれで「人生の午前」の苦しみとも思えます。しかし仕事の責任がなくなると負荷もなくなりますが、生活の多くの時間を費やした仕事がなくなるということは大変なことでもあります。最大の問題は一緒に仕事をする仲間(共同体)がなくなることだと感じました。

ゆっくりと「人生の午後」に突入したことは感じていましたが、最近になると、①昔の家族②現在の家族③仕事場など、身近な共同体が全部なくなったことを実感しています。この3つの身近な共同体の全盛期には、忙しく責任があり心配しストレスから「一人でゆっくりしたい」といつも思っていました。賑やかなときは、昔の家族、今の家族、仕事場など、身近な人間とその関係者だけでも、身近な共同体として多くの人間関係を持つことができました。最近になり共同体の身近な人間関係がほとんどいなくなりました。それならそれで新しい共同体への参加も考えています。しかし誰であっても同様であると思われますが、身近な家族や共同体喪失のタイミングには「人生の午後」にあり、夕陽や日没を意識するときかもしれません。

 

■⑴ ステージ4の「スキルス胃がん」が発覚して、32歳の若さで亡くなったみどりさん。医師から病名が告げられたとき、双子の娘「もっちゃん」「こっちゃん」はまだ4歳でした。がんと診断され最期をむかえるまでに、夫の「こうめいさん」ら家族は何をどう選択したのか、双子の娘に残した2冊のノートはどのようにして書かれるに至ったのか。
32歳がんで逝った母親が双子娘に遺した生き様

 

■⑵ 力なく泣いている母が、胸に奏さんを抱いていた。「奏ちゃん、冷たいんだ、冷たいんだ……」伸一さんは、目の前の現実をのみ込めなかった。聞くと、母は濁流にのみ込まれた直後に、気を失っていた。津波が引いた後、がれきになった家の中で孫を見つけたという。泥にまみれた体を抱きしめると、「ほっぺにチュー」をせがんだ娘は氷のように冷たく、髪からは砂がぼろぼろとこぼれ出た。「俺のせいだ。俺が学校から家に連れ戻しさえしなければ……」家の中で花さんを見つけ、壁を壊して引っ張り出すと、人を笑わせるのが好きで、いつもほほえんでいた顔は泥だらけだった。「ごめんな。お父ちゃんがついていながら」。夜、保育所の2階で冷たくなった2人の娘を抱きながら、うなり続けた。
「生きる意味」を探して 津波で3人の子を失った夫婦の12年 

 

■⑶[ノンフィクション]産み育ててもらい50年間、実家の最後の家族である母。過去一年に渡り検査や治療や介護にたずさわり、ここで2つの選択を迫られる、①胃婁で延命に期待②胃婁せずやわらかい確実な餓死、どちらかだ。これに関し胃婁派や反胃婁派(延命治療推進派と反延命治療派)は、さまざまな議論を展開している。しかし本人の意思を聞いているなら胃婁しない方がよい、で進めるのが当然だが、数週間後に、私は「胃婁をしない」という決断が鈍っていた。論理的には、いくつもの展開で「胃婁をするべきではない」ことはわかっていた。であるなら、もうすぐ食事ができくなる現実に、水や点滴だけで、命を止める、決断がどうしてもできなくなっていた。理屈ではもっと、延命治療をしない方向と準備を進めるべきであったが、理論や論理ではなく、ただどうしても「自分の意識的決断によって母の命を止めること」が、感情的にできなくなっていた。
混乱期でもない、平和な社会にありながら、それでも人間は、問題に直面し、ショックを受け、悲しみ、苦しみ、絶望を繰り返す。

 

■⑷ 随筆『方丈記』 ついには笠を着て、足を隠し包み、立派な姿をした者、ひたすらに食料を求めて、家々を乞い歩く。途方(とほう)に暮れてさ迷いながら、歩くかと見ていれば、たちまちに倒れ伏せる。築地(ついじ)[屋根付きの土塀]にもたれ、あるいは道ばたに飢え死んだ者たちの、数さえ分からないくらいである。取り捨てる方法も知らないので、腐敗した死臭は世に満ちあふれ、死人(しびと)の朽ちてゆく姿、そのありさま、目もあてられないことばかり。まして、賀茂(かも)の河原などには、馬や車の行き交う道さえないほど、遺体があふれている。

憐れみを催すようなこともあった。離れられない妻、夫を持った者は、より愛情の深いものの方が、かならず先だって死んでしまう。その理由は、みずからは次にして、愛おしく思うあまりに、たまたま得た食べ物さえも、相手に譲るからである。そうであるならば、親子の間柄にある者は、定められた事として、親こそ先に亡くなるのだった。それなのに、母の命の尽きたことも知らず、あどけない子供の、なお乳を吸いながら、そのうえに伏せていることさえあった……

死者の数を知ろうとして、四月から五月にわたって数えたところ、みやこのうち、一条大路よりは南、九条大路よりは北、京極(きょうごく)大路よりは西、朱雀(すざく)大路よりは東の、道に横たわる頭(かしら)、あわせて四万二千三百あまりにもなったという。まして、その前後に死んだものも多く、また、賀茂の河原、郊外の白河、みやこの右京[朱雀大路の西側、平安京は左右が同等に発展せず、右京は荒廃していた]、さまざまな辺地などを加えて言えば、際限もないくらい。いったいどうして、そのうえ、七道諸国について語ることなど出来ようか。

鴨長明『方丈記』現代語訳 より

【古典朗読】鴨長明「方丈記」現代語訳(ユーチューブ)

 

■⑸[明治期の実話1] 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

[明治期の実話2] また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

『山の人生』柳田国男より

柳田国男 『山の人生』ユーチューブ

 

■⑹ [多くの実話からの戦争文学]そのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。 一面の空の色。 ちいちゃんは、空色の花ばたけの中に立っていました。見回しても、見回しても、花ばたけ。 「きっと、ここ、空の上よ。」と、ちいちゃんは思いました。「ああ、あたし、おなかがすいて軽くなったから、ういたのね。」 そのとき、むこうから、お父さんとお母さんとお兄ちゃんが、わらいながら歩いてくるのが見えました。「なあんだ。みんな、こんな所にいたから、来なかったのね。ちいちゃんは、きらきらわらいだしました。 わらいながら、花ばたけの中を走りだしました。夏のはじめのある朝、 こうして、小さな女の子の命が、空にきえました。

「ちいちゃんのかげおくり」 あまんきみこ作

 

■※理性では受け止めることも説明することも難しい現実におこる出来事。意味付ができない不条理な「死」の体験、現在多くの日本人は納得できる腑に落ちそうな説明ができそうにありません。近代社会において「死」そのものの位置や意味がより不明瞭になっているからかもしれません。それでは信仰を失い、共同体を失った、多くの近代社会に生きる人間は「人生の午後」に身近に迫る「死」をどのように受け止めるべきでしょうか?受け止められるわけがありません。不条理、恐怖、不安、不幸、ニヒリズム、ナンセンスなどネガティブな意識を際限なく繰り返すしかありません。この問題を理性的に合理的にまじめに真剣に考えれば考えるほど自意識からの答えは定まらない。それどころか、さらに不安や恐怖や理不尽さは増していきます。

■※小林秀雄は『山の人生』『遠野物語』など柳田国男の作品から「信仰」や「信念」について言及しています。信仰(神や天や悟り)は恩寵にによって授かる。「信念」なら迷うことからしか生まれない。よって現代人で信仰がない知識人は迷うしかないはず。しかし戦後の知識人には信仰も迷いもなく要するに「信念」がない。迷うことなく理性や論理で世界や社会をもっともらしく説明しようとしているが、直観的に腑に落ちるものがないのは「信念」がないからである。戦後知識人を批判しているように思われます。

「信念」は「砂上の楼閣」であるという側面があるかもしれません。「砂上の楼閣」と分かったうえで信念を構築するには、迷いを繰り返し疑い苦しんで、創成や瓦解や再構築や修繕を繰り返すしかない。「信念」は理論や論理や科学だけでは形成されない。最終的に腑に落ちる直観的感情である。少なくとも自身の「死」の意味を直観的に覚悟している必要がある。との内容であると解釈しています。

人間の「信仰や信念」は「砂上の楼閣」のようにもろい。もろいからこそ、毎日祈ったり、毎日精神や自意識を確認しなければならないのかもしれません。「信念」が崩れそうになれば修復も必要となる。しかし一人ではどうしても崩れそうになり、不安や絶望へ向かってしまうことが多い。すなわち「信仰や信念」の基盤は共同体(他者)である。親身な人間(他者)による信仰や信念の相互認識が必要となる。

理性や合理主義の理論や論理のみでは個人も社会もうまくいくはずがない。恩寵による不確実性は悩ましいこととも思えるが、「信仰や信念」を受け入れようとするなら、恩寵を待ち望み、かつ疑いや迷いや創成や瓦解や再構築が必要と思える。信念の形成は自己判断であり直観的な感情が腑に落ちているか否かだけかもしれません。一度悟ったと確信する瞬間があったとしても永続するとは限りません(涅槃に定住できないので永続しない)よって「信仰や信念」は砂上の楼閣である。しかしながら、近代人であり理性や合理や個人を重んじるなら、同時に信仰や信念なしでは絶望へ向うしかない。恩寵や感情を伴わない「信念」はただの言葉の塊である。小林秀雄はイデオロギーと距離を置いてきたので個人思想として観ました。しかし個人思想の「信念」であっても一定数に浸透すれば社会を動かすのは明らかです。

 

■※【⑵「生きる意味」を探して 津波で3人の子を失った夫婦の12年】東日本大震災の遠藤さんご夫婦の体験。過酷な家族の「死」を体験せざる得なかった。最初に直面した際に「状況がつかめなかった」とあり、自身の家族喪失の体験を思い起こしました。

私の50年間お世話になった母が重病から看取りの瞬間を思いだしました。死亡した瞬間の数字と虫の息の呼吸が無くなった瞬間。「状況がつかめなかった」数年も前から余命を理解していたのにも関わらず、亡くなった瞬間には全く状況が理解不能になりました。腰が抜けるというような感覚、ショックから力がぬけ立っていられない感覚。「腰が抜ける」という表現は実際に存在する現象だということを、自分の体験ではじめて知りました。

頭が真っ白になるとはこのことでした。医師から「もう時間がない数時間以内に亡くなる可能性が高い」と知らされてから数時間程度で亡くなりましたが、その数時間の過酷な「母の死」への道程が、その後数ヶ月フラッシュバックしました。「母の死=自身の死=現在の家族の死」ともイメージしてしまう。世界(人類)の終焉の瞬間でも同じ意識かもしれないと、その後思い起こしました。病室で母と2人だけであり、「脈拍(心拍)」「血圧」がどんどん変化するにつれて、呼吸が荒くなったり、虫の息となり、やがて突然完全にストップしました。遠藤伸一さんが「保育所の2階で冷たくなった2人の娘を抱きながら、うなり続けた」と記事にありました。看取りのときのショックや動転や深刻な苦しみが蘇りました。

私は数年前から必死の思いで対応し、数ヶ月前からは地獄のような気持ちでした。それでも絶対あきらめないという理性的な精神はあとに自身を徹底的に追い詰めることに繋がりました。伸一さんの学校から必死の判断で家に連れて帰ったことが裏目となり「俺が子供を殺した」という一生消えない苦しみそのものの後悔。私は母の胃婁手術判断で自分の判断で、結果として母に苦しい思いをさせてしまったと後日判断しています。自分のミスを永久に忘れることはないと感じました。

周囲から「当時の状況から仕方がなかった」と言及されても、結果として家族に味合わせてしまった苦しみから後悔を一生忘れることはないと確信しました。数年前から、数ヶ月前から、数時間前から「死」のカウントダウンされることも、突然に発生する「死」も、どちらも過酷であり理性で整理することはできないと思われます。

永久とも思えるほど長い時間、苦しみから眠りが浅くなる、また悪夢の苦しみが繰り返される 。それでも「砂上の楼閣」のような希望を求め、今日一日一生懸命することのみを考える 。今日一日一生懸命何とか子頑張ろうと自分を奮い起こし自分に鞭打つ。「生きる意味を求めて」それは 「砂上の楼閣 」。砂上の楼閣であることが、薄々わかりつつ生きる意味のため、今日一日なんとか生きるために、今日一日なんとか一生懸命になれるために 必死に何かに打ち込むしかない 。

ショックと深刻な苦しみの中、苦しみを回避するために、今日一日の一生懸命になれるものを探す。今日一日だけかけられるものを探す。 なんとか今日一日 だけ取り組もう、 今日一日だけ生きてみよう。 今日一日だけの意味を探そう。 今日一日の「砂上の楼閣」 それが生きる意味のすべて、それが信仰でありそれが信念。砂上の楼閣のような信念であると理解しつつ、それでも「砂上の楼閣」を探さなければ生きていない。

遠藤さんの家具つくりは、まさに「砂上の楼閣」とわかったうえで、なお「生きる意味」をなんとかみつけるための「信念」ではないか。それも今日一日だけ、生きるために信念としてなんとか探さなければいけない信念である。なんとか生きるため、なんとか苦しみを回避するために、今日だけはなんとか、何かに、仕事に意識を集中しなけば、「命」が掛かっている仕事なのである。

仕事の「責任や集中や過酷さや負荷や疲労」が過酷な精神的苦痛を若干小さくしてくれるからである。あまりに過酷で大きな悩みや苦しみには、何とか一生懸命にとりくめる小さな苦しみである仕事こそ、苦しみからの回避となる。これが「生きる意味」の正体であろう。生きる意味に根拠はいらない。一生懸命に無我夢中でとりくめる仕事が適している。

過酷で大きい苦しみを、働いている間だけ、懸命に取り組むことによって苦しみが小さくなる。その後の疲労からも苦しみが小さくなる。それでも過酷な苦しみが繰り返し蘇る。数年、数十年と過酷な苦しみは縮小していく。過酷な苦しみは永久に続かない。しかし大きい苦しみの中にあるときは、永久に苦しむという幻想も加わり死ぬしかないとも考える。しかし大きな苦しみは永続しない。信仰や信念は過酷な苦しみの最中では無力に思えてしまうこともある。

しかしながら「砂上の楼閣のような信念」であっても、大きな苦しみを、いずれ、小さくする「力」をもっている。それが「信仰であり信念」である。「人生の午前」には必要を感じなかったが、「人生の午後」には「信仰や信念」の発見や構築や修復や強靭化を必要とする。誰もが死を身近に感じ、死を目の前にして、「生きる意味」を見失うからだ。

砂上の楼閣かもしれないと感じても「信仰や信念」を探し求めることしか、過酷な苦しみを回避する方法はない。よって「人生の午後」には「信仰や信念」が必要となる。大きな苦しみの直後には、生きる意味を求めて、必死に一生懸命に取り組めるものが必要である。恩寵をもって寺で修行できるならそれは救いであり、反対に恩寵がさずけられなければ「生きる意味」のために、今日一日だけ一心不乱に、覚悟をもって一生懸命になれる仕事を根拠なしに探し求めるしかない。

家猫であっても、周囲に危機があってもなくても、自ら危機を感じパトロールする。一定の緊張や負荷や疲労がないと、ゆっくりねむれないのだろう。周囲に危機がまったくないときでも。「砂上の楼閣」のような人間の信念のようなものかもしれない。猫の信念のほうが迷いなくドン・キホーテ(ドストエフスキー解釈の)のように自らを奮い立たたせ闘っているように観える。しかし猫は信念ではなく、もともと備わっている本能から一生懸命パトロールしている。人間より迷いなく闘うことができる本能に「信念」がすでに組み込まれているのかもしれない。(吾輩は猫になりたい)

 

■※柳田国男『山の人生』最初の二話において刑期に恩赦を受けた二人は獄中も恩赦後も、あきらに十字架を背負い苦しみながら生きたであろう。しかし、私たちも「人生の午後」にあって、まったく同質の迷いや苦しみを経験するのではないか?平時であろうと戦時であろうと、過酷な運命の人生も、平穏な人生であっても、「人生の午後」には、死を意識し、絶望し不安となり、信念や信仰も限定的であり、誰もが後悔や不安を背負い、ドウッカを回避できず「人生の午後」には『山の人生』の実話の犯罪者と同質の絶望や苦しみを経験しなければならないのではないか。であるなら人間にとって「信仰や信念」がなければ生きては行けないのではないか。「信仰や信念」が欠落していれば「人生の午後」は地獄そのものとなろう。

 

■※『ちいちゃんのかげおくり』信仰が見当たらず信念もすべて消滅する。戦時中の空襲前日まで、生きていたときに家族や共同体や信仰や信念もあった。しかし突然、家族と共同体が消滅し信仰も信念も消滅する。全く救いが存在しないディストピアである。この作品を読んだ人間は「この世界にはリアルにディストピアが存在する」ことを知る。「もののあわれ」を適応できない気分となる。「信念」のための迷いさえ存在できない。戦時中には「批評や文学や思想」が無力化されるのかもしれない。「無常」以外はすべて無力化されてしまう。信仰や信念が存在できない「無常」であるが、読者の一部には戦時中の体験としてリアルに感じる人もいるのかもしれない。救いのないネガティブな無常観しか感じられない。「人生の午後」には、計り知れない深淵の闇や苦しみが隠されているが、誰も表現しようとしていないのかもしれない。「人生の午後」には、このような意識を感じることが繰り返し訪れるのかもしれない。「無常」と「静寂」のみが有効であり「瞑想」より他に回避できる場所が存在しない。「人生の午後」の日没(夕陽)に近い時間帯では、誰もが「ちいちゃん」の最期を共有することになるのかもしれない。「人生の午前」からはディストピアに観えてしまうだけで、日没(夕陽)の時間には何を感じるのだろう。ちいちゃんの最期の瞬間には家族に再会できた「歓喜の意識」であったことのみが救いと感じた。しかし作品の「静寂観」を回避できるものではない。「無常」にも、豊かな「無常」と救いのない「無常」など異質なものを感じる。前者は「もののあわれ」と感じられるが、後者は「虚無」としか感じられない。理性や批評は「虚無」と理解しますが、お釈迦様は「虚無」も煩悩であると明言した。また、多彩な日本の信仰や信念は「虚無」さえも「もののあわれ」として受け入れる。

 

■※私が生きる意味に迷ったとき、「砂上の楼閣」とわかりつつ、根拠もなく、今日だけは夕方まで一生懸命やってみる。と意識を意識して自分を奮い立たせることがある。生きられなくなってしまう前に。「生きる意味とは砂上の楼閣のような信念」かもしれない。『方丈記』には信仰の悟りをもとめるが、悟りもときに迷いを回避できず、最終章では「南無阿弥陀仏」と言葉にするが、迷いをはらえず悟りも中途半端であるところでエッセイを終了させている。お釈迦さまは「人生は苦しみである」と明言している。そして悟りに至ったと思ってもドウッカを回避することはできないが、その苦しみを小さくすることはできると提案する。それが悟りであるとする。信仰や悟りにおいて、この世にありながら涅槃や天国に定住できるわけではなく、それらの理想は方向である。すなわち人間は死ぬまで迷い苦しむものである。信仰や信念は「人生は苦しみである」覚悟を引き受けることである。「信仰や信念」によって迷いや苦しみはある程度小さくすることもできる。(なくすことはできない)

『方丈記』
[冒頭]

ゆく河の流れは絶えることなく、しかも、もとの水ではない。そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)[泡沫。水上の泡のこと]は、あるいは消え、あるいは結びつき、久しく留ったためしはない。世の中に生きる人と住みかも、またそのようなものだ。

 玉を敷き詰めたような都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、軒(のき)を争うような、高貴なもの、貧しきものの住まいは、世の移り変わりにも、尽きることはないが、それが真実(しんじつ)かと尋ねれば、昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。朝(あした)に死に、夕べに生まれる人の営みは、ただ水の泡沫(あわ)にこそ似たものであろうか。

 知るものはいない。生まれ死ぬ人、どこから来て、どこへと去ってゆくのか。そう、知るものはいないのだ。つかの間のこの世の住まい、誰のためにかこころを悩ませ、何をたよりに見た目をよろこび誇るのか。あるじと住みかとが、互いに無常を競い合うさまは、まるで朝顔の露と変わらないものを……

 たとえば、露はしたたり落ち、花はなお残る。残ったとしても、朝日を浴びては枯れてしまう。あるいは、花はしぼんで、露はなお消えない。消えないとしても、夕べを待つことなど出来ないものを……

※別訳【などと考えてみると どこから来て どこへ行くかという問いに対して、答え得るものは どこにもあるものではなく、人はどこから来てどこへ行くかは 永遠に解くを得ない謎であって人々はこの謎の中に生まれ そうして死していくのである。水に浮かぶ泡が 結び かつ消えるように、かくはかなく 解くを得ない運命を を歩まなくてはならない人々はまたこの世において 何を楽しみ 何を苦しんで生きているのであろう。泡のごとくに消えなくてはならない わずかの人生の中で、どんな仕事に面白みを見いだし また どんなことで苦しんでいるのか。多くの人々の答えを求めたとすれば 各種各様に答えが出て、決してひとつのものにはならず 結局何を苦しみ、何を楽しんでいるのか また 何をなすべきかなどということも、一つの永遠に解きえない謎になって しまうのである

[末尾]

このような迷いごころ[つまり『方丈記』などと銘打って執筆してしまったようなその心]の果てに、ついに狂ってしまったのだろうか……その時、心はさらには答えなかった。そうであるならば……今はただ、答えない心のかたわらに、つかの間の舌のちからを借りて、心のあずかり知らない南無阿弥陀仏を、三べんほど唱えて、この暁(あかつき)の随筆を、静かに終わりにしようか。※別訳【煩悩があまりにも強かったがために、心が狂ったのであったか などと「自分がどうして悟れなかった」と 自問自答しても、何の答えも与えられなかった。それでただ 口舌の力を借り「南無阿弥陀仏」と、二三度、仏の恩名を唱えて その加護をお祈りするまでである】

 

砂上の楼閣としての信念「鴨長明」「柳田国男」「小林秀雄」個人思想の死生観について【人生の午後】あとがき

「柔らかいナショナリズムの誕生」日本を再び戦場とさせないために

 

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