小説 『分断国家2040』

  • 第1章:トランプ関税と米中覇権戦争
  • 第2章:イスラエル・イラン戦争と中東崩壊
  • 第3章:パキスタン・インド戦争と南アジア動乱
  • 第4章:台湾侵攻と日米同盟の分岐
  • 第5章:中国の核恫喝と停戦交渉
  • 第6章:日本のリベラル政権とフィンランド化
  • 第7章:米軍撤退とアジア太平洋空白
  • 第8章:中国の沖縄上陸
  • 第9章:経済封鎖とエネルギー危機
  • 第10章:新しい戦争の形(AI・無人兵器・情報戦)
  • 第11章:侵攻と無抵抗降伏
  • 第12章:西日本分断統治の始まり
  • 第13章:傀儡政権の成立と弾圧(分断国家2040)
  • 第14章:地下ネットワークとレジスタンス
  • 第15章:分断国家の歴史

 

 

第1章 兆しの空

2025年春。東京の空は、花粉と黄砂と、時折吹き込む偏西風の異臭で濁っていた。かつての透明感ある青空は、もう何年も見ていない。麻布十番の高層マンションに暮らす報道ディレクターの桐谷悠人(きりたに・ゆうと)は、窓越しに空を睨みつけながら、朝のコーヒーを口にした。カップの底には、彼が愛したエチオピア産の豆の香りがまだ残っていたが、その風味さえも、近頃では妙に苦く感じられる。

テレビ局の編集室では、ニュースのテロップが赤く点滅していた。

《速報:米国、追加関税発表 中国との貿易戦争激化へ》

「これで何度目だ?もう“戦争”って言葉を使うのも慣れてきたな」編集長の佐伯が吐き捨てるように言った。

「でも、これがただの経済摩擦じゃないのは誰の目にも明らかですよね」悠人は画面を見つめたまま返した。「この“関税”は、アメリカの宣戦布告だ。しかも世界に向けての」

佐伯はしばらく沈黙したあと、ぼそりと呟いた。「昭和の頃の“日本沈没”がフィクションで済んだのは、あの頃まだ“国家”が強かったからだよな。今は違う。もう地殻より先に、人間の精神が沈み始めてる」

その言葉に悠人は返せなかった。

彼には最近、ある「違和感」があった。メディアの報道現場で、明らかに“誰かの意図”が動いていると感じる場面が増えた。中国に不利なニュースが流れると、どこからともなく圧力がかかり、映像が差し替えられたり、ナレーションが穏当な表現に変えられたりした。スポンサーの顔色か、あるいはもっと深いところで、何かが操作されている。

「これ、報じていいんですか?」若手ディレクターの今村が、タブレットを差し出した。そこには、韓国済州島沖の海底ケーブルが爆破されたとの未確認情報が表示されていた。

「発信源は?」悠人が尋ねる。

「日本の防衛省内リークです。だけど公式発表は一切なし。アメリカと中国が裏で睨み合ってるって話も」

悠人は首を振った。「待て。裏が取れていない情報を出すな。今は逆に使われるぞ。ニュースは爆弾じゃない。刃物なんだ。扱いを誤れば、自分たちが刺される」

だが、彼自身の中にも、すでにうごめく“違和感”は確実に成長していた。これはただの貿易戦争ではない。戦争の準備が、すでに整い始めている。

その夜、帰宅した悠人は、テレビをつけたままソファに沈み込んだ。画面には、ロシアとヨーロッパ間の緊張には興味を失いつつあったアメリカ人が、中国には危機感を失わず、アメリカ西海岸で起きた大規模な反中国デモの様子が映っている。群衆が五星紅旗を焼き、大声で叫んでいた。

《USA will not kneel!》

それを見つめる悠人の目に、何の感情も浮かばなかった。ただ、胸の奥にわずかな痛みが残った。

スマートフォンにメッセージが届いた。送り主は、かつて同じ大学で地政学を学んだ旧友、天川修一(あまかわ・しゅういち)。今は外務省の中東課にいるはずだ。

「イスラエルが、イランとの国境に戦車を展開したらしい。お前の勘、当たってるぞ」

悠人は、返信せずにスマホを伏せた。そして、天井を見上げた。薄いクロスの奥に、崩壊する世界の音が聞こえるような気がした。

一方その頃、長野県諏訪市の山中では、防衛装備庁の極秘実験が続いていた。実験室は廃墟となった自衛隊基地を改装したもので、外部には「災害対策研究所」と偽装されている。

その中で、30代半ばの女性研究者・鳴海さつきは、黙々とコンソールを見つめていた。彼女の専門は「地磁気による深層地下観測」。この分野は一般的にはあまり知られていないが、実は国家機密級の技術として、中国やロシアも注目している。

「またズレてる……」彼女はモニターを見つめながら呟いた。

最近、太平洋プレートとフィリピン海プレートの間に、わずかながら“呼吸”のような動きが観測されていた。通常であれば無視されるレベルの誤差だったが、彼女は確信していた。

「これは前兆だ。海底に何かが起きている」

だが上司に報告しても、「予算がない」「政治的リスクが高い」と一蹴された。地震予測は未だ“非科学的”というレッテルを貼られていた。だが彼女には、それが“都合の良い無視”にしか思えなかった。

「この国は、本当にまた沈もうとしてるのかもね」

そう呟いた瞬間、ラボの照明が一瞬だけ落ち、非常灯が赤く点滅した。停電?違う、電磁異常だ。体が微かに浮くような錯覚に襲われる。直感が叫ぶ。

何かが、始まっている。

東京。深夜2時。

悠人は眠れず、ネットの深層部に潜っていた。匿名の軍事ブログが、意味深な投稿をしていた。

《台湾海峡に、無人潜航艇が大量展開された形跡あり。沈黙の艦隊は、既に動いている》

スクロールを止めたそのとき、外からわずかに地響きのような音が聞こえた。次の瞬間、電灯が一瞬だけ明滅し、静寂が訪れた。

彼の背中に、冷たい汗が伝った。

そのとき、彼はまだ知らなかった。10年後、日本が分断される運命にあることを。

そして、自分がその歴史の“記録者”となることも。

第2章 火の谷

2026年初春。
テヘランの空は、重苦しい鉛色に覆われていた。春の訪れを告げるはずの風は、硝煙とオゾンのにおいを運んできた。イスラム共和国の最高国家安全保障評議会は、夜を徹して緊急会議を続けていた。首都の中心部には、革命防衛隊(IRGC)の装甲車が並び、広報官が厳しい表情でカメラの前に立つ。

「本日、我が国領内のナタンツ核施設に対し、イスラエル軍による空爆が確認されました。これは明確な主権侵害であり、我々は断固たる報復を行うでしょう」

記者たちが一斉にどよめいた。世界は息を呑んでいた。

エルサレム。
深夜の国防省に、非常サイレンが鳴り響いていた。ベン・アミ国防相は、地中海沿岸の最新ミサイル迎撃データを見ながら、顎に手を当てた。

「イランは本気だ。我々が壊したのは、ただの施設ではない。あそこは、プルトニウム濃縮の心臓部だった」

彼の目は疲れていた。内閣は分裂していた。アメリカの支援を前提とした強硬路線と、国際的孤立を恐れる慎重派が日々衝突していた。しかし今となっては、もう後戻りはできない。

「我々は開戦を選んだ。あとは、勝ち残るだけだ」

その言葉通り、イスラエル空軍は翌朝、イランの核関連施設12箇所への同時攻撃を行った。衛星通信と電子妨害技術により、イランの防空網は一時的に無力化された。しかし、それは火に油を注ぐ結果となった。

東京・防衛研究所。
鳴海さつきのもとに、政府系の匿名ルートから暗号化通信が届いた。件名は「シグナルB-12」。添付ファイルには、中東上空の大気放射線量の異常な変動が記録されていた。

「これは……戦術核?」彼女は画面を見つめた。

だが、公式発表では何も触れられていなかった。メディアも沈黙していた。SNSは情報が錯綜し、信頼できるソースは極端に減っていた。

彼女はすぐに、桐谷悠人に暗号化メッセージを送った。

「中東で、核の可能性がある。裏取ってくれ。報道が止まってる」

悠人は、海外特派員ルートで得た情報を照合していた。イラン西部のケルマンシャー州で、住民の突然死が複数報告されていた。しかも、それがWHO経由で削除されている。

「この匂いは……戦略的隠蔽だ」

彼は、報道局の佐伯に相談した。

「戦術核が使われた可能性がある。だがアメリカもイスラエルもそれを否定してる。証拠が足りない。でも——これは“第二のチェルノブイリ”になるかもしれない」

佐伯は目を閉じて言った。「それを報じれば、俺たちは消えるぞ」

「でも、報じなきゃ、世界が死ぬ」

その夜、報道特番で“中東戦火拡大”を取り上げた。だが、核については一切触れられなかった。ネット上では「忖度報道」や「政府プロパガンダ」と批判され、局のサーバーは一時ダウンした。

一方、イランの報復は苛烈だった。イスラエル全土に向けて数百発のミサイルが発射され、一部はテルアビブに着弾。死者は1,200名を超え、国家は非常事態宣言を発令。

この報復により、サウジアラビアとUAEは中立を表明。だがその裏で、イスラエルへの石油供給を密かに停止していた。OPEC内でも意見が割れ、中東のエネルギー供給は急速に不安定化していく。

やがて、イラク・シリアのシーア派民兵がイランの支援で蜂起し、イスラエルと西側諸国の拠点を襲撃。バグダッドでは、米大使館が閉鎖された。

アメリカは、国内世論の分裂により軍事介入を渋っていた。2024年に再選されたトランプ前大統領の影響で、孤立主義が政界を席巻していた。

東京。
悠人はニュースを見つめながら、息を呑んだ。

《速報:イスラエル、イランと戦争状態を宣言》

そして、その下に小さく表示された字幕があった。

《国際原子力機関(IAEA)、イランでの異常放射線を調査中》

「ああ……始まってしまった」

彼はつぶやいた。これは、もはや単なる地域紛争ではない。中東の均衡が崩れた瞬間だった。

世界のエネルギー価格は1週間で2倍に跳ね上がり、日本ではガソリンが1リットル500円を超えた。政府は備蓄放出を決定したが、供給は追いつかず、都市部では暴動寸前の買いだめが起きていた。

一方、鳴海さつきはラボで“第二波”を検出していた。今度は、紅海を越えてアフリカ北部にまで広がる放射線粒子の動きだ。風向きは変わり、サハラ砂漠とともに放射性微粒子が欧州方面へと流れていた。

「これ、地球規模の気象変動に発展するかもしれない……」

その予測通り、2026年の夏、欧州南部では異常高温と乾燥により森林火災が頻発。スペインとイタリアの農業生産は過去最低を記録した。

世界のどこかで起きた戦争が、世界中を巻き込む。鳴海はデータを眺めながら思った。

「中東が崩れた。それは、世界が崩れたということだ」

終戦の兆しはなかった。イランはヒズボラを通じてレバノン戦線を強化し、イスラエルはシリアへの侵攻を開始した。その一方で、ロシアと中国はこの混乱を“戦略的チャンス”と見なし、それぞれの影響力を中東に拡大し始めた。

混沌と破壊の火が、砂漠から世界へと広がる。
第三次世界大戦の“導火線”は、確かにここから始まった。

そして日本でも、人々はまだ気づいていなかった。
この火の粉が、やがて自らの国土を焦がすことになるとは。

 

 

第3章 分水嶺の大地

2027年5月。
インド北部、ジャンムー・カシミール州。

標高4000メートルを超えるラダック地方の山岳地帯。春とはいえ、気温は氷点下に近い。国境付近には、薄く積もった雪の下に、鉄と油の匂いが漂っていた。迷彩服に身を包んだパキスタン軍兵士が、小型無人偵察機の映像を睨みつけていた。

「インド側、今朝から第34機甲旅団が移動開始。何かあるぞ」

司令官は静かに頷いた。「先に撃ってきたら報復だ。だが、何があってもカシミールを渡すな」

デリー。
インド連邦政府の作戦司令部では、首相ナレンドラ・ダスが軍参謀を前にして机を叩いていた。

「もう限界だ。あいつらは核保有国だからと甘えている。テロ攻撃は越えてはならない一線だ」

三日前、ムンバイで発生した爆破テロ。死者138名。犯行声明を出したのは、パキスタンの過激派組織「ラシュカレ・タイバ」。インド側はこれを「パキスタン政府の黙認下での犯行」と断定し、国際社会に支持を求めていた。

しかし国連は沈黙し、アメリカも内政混乱で静観の構えだった。中国は表向き中立を装いながら、パキスタンに対し大量のドローンと電子妨害装置を供与していた。

「インドは、今こそ“第二の独立”を勝ち取る時だ」

ナレンドラ首相のその言葉を皮切りに、インド政府は“対テロ限定攻撃”として、カシミールとパンジャブ州境界線への空爆を開始。だが、それは実質的な開戦宣言だった。

イスラマバード。
パキスタンのカーン大統領は、戒厳令を布告した。核戦力の準備命令が出され、潜在的な核抑止力が再び中東に続き、南アジアでも現実のものとなった。

「我々は、核の使用も辞さない。国家の尊厳のために」

それは脅しではなかった。過去、1999年のカルギル紛争、2001年の国会議事堂襲撃事件、そして2019年の空中戦と報復爆撃——インドとパキスタンは何度も核の淵を覗き込んできた。そして今度こそ、その一線を越えようとしていた。

東京。
鳴海さつきは、シベリア経由の観測衛星のデータを解析していた。異常な熱源反応がインド北部で連続して検出された。

「爆弾じゃない……これは戦術核だ」

だが、IAEAも国際メディアも報じていない。理由は明白だった。世界は、真実を知るには“まだ”準備ができていないのだ。

彼女は再び桐谷悠人にメッセージを送った。

「南アジアで核。確証9割。米・中・露は沈黙」

悠人はすぐに返事を打った。

「“第2の中東”になる。日本の立場も変わるぞ」

数日後、インドは国連で声明を発表した。

《我々は核兵器を使っていない。だが、必要とあらば、保有する正当な権利を行使する》

これに対し、パキスタン外相は「使用したのはインド側」と反論。両国ともに相手を“先に使った”と非難し合い、国際社会は証拠不十分を理由に、ただ沈黙した。

戦火はカシミールだけにとどまらなかった。パキスタン西部のバロチスタン州では民族武装勢力が蜂起し、アフガニスタンとの国境地帯では米軍撤退後に再編された旧タリバン系組織が軍事行動を開始。イランのシーア派も動き出し、国境地帯は無政府状態となった。

南アジア全域が、“沈黙の内戦”に包まれていった。

日本。
円安とエネルギー価格の高騰で、都市生活者の不満は臨界点に達していた。岸田政権は支持率を大きく落とし、与党内でも「対中宥和」「インド支援」「非同盟中立」などの方針が分裂していた。

「結局、日本はどこに立つべきなんだ?」

国会内で、野党議員が叫ぶ。

「戦争に巻き込まれるなというが、巻き込まれているんだ!太平洋戦争の記憶を忘れるな!」

民衆の怒りは、生活の困窮から“外交”と“軍事”へと向かい始めていた。社会は右傾化と急進的リベラルの両極端に割れ、「平和憲法の再解釈」が現実の政策議題として浮上していた。

鳴海さつきは、衛星画像と気象データの統合モデルをシミュレーションしていた。インド・パキスタン戦争による放射性粒子は、偏西風に乗ってベンガル湾から東シナ海へ、そして日本列島にも微量ながら到達している。

「このまま核使用が常態化すれば、大気圏の“静かな死”が始まる」

そう口にしたとき、彼女のモニターに“第3波”のデータが届いた。ミャンマー北部の軍事施設からの異常熱源——。

「まさか、もう……」

2027年末。
世界はまた一つ、禁断の扉を開けていた。南アジアの核戦争は正式な“核使用の既成事実”となり、冷戦時代の“抑止”はすでに機能を失っていた。

第三次世界大戦とは、必ずしも“宣戦布告”から始まるわけではない。
それは、日常の中で静かに崩壊していく秩序の中から、ある日突然“気づいたときには始まっていた”という形で訪れる。

そしてその日は、確実に近づいていた。

 

第4章 裏切りの海峡

2028年6月。
台北上空を、黒い点がいくつも横切った。レーダーに映らない無人機が、数秒後には市内各所の通信中継局や電力変電所に正確に突入し、静かに爆発した。轟音も炎もなく、ただ都市の「機能」だけが、突然奪われた。

同時に、台湾本島北部に位置する淡水港では、陸地から数キロ離れた洋上に、中国の高速揚陸艦「玉山級」がシルエットを現した。海霧に包まれながら、音もなく近づいてくる。

「来たぞ……!」

台湾軍第六軍団の陳中将は、司令室で拳を握りしめた。島全体に非常事態宣言が発令されたが、反応が間に合わない。すでにネットは遮断され、主要テレビ局は黒い画面に切り替わっていた。

中国人民解放軍は、すでに“戦闘”を始めていた。

ワシントンD.C.
米国国家安全保障会議(NSC)は緊急招集されていた。大統領は議場の中央で、腕を組みながら沈黙していた。国防長官が言う。

「台湾本島北部において、20分前に上陸が確認された。通信遮断により情報は不明だが、これは侵略だ。中国は明らかに“先に撃った”。我々は同盟国を見捨てられない」

しかし、政権内部には動揺が走っていた。中東と南アジアで連続的に起きた衝突により、米国本土では「海外軍事介入疲れ」が蔓延していた。大統領支持率は低迷し、来年の選挙を控え、共和・民主両党から「東アジアでの戦争回避」を求める声が強かった。

「まずは議会と国連で協議を」
「日本がどこまで動けるかによる」
「グアムから空母を出す準備は整っていない」

“台湾を見殺しにするか否か”という選択が、政治的計算によって議論されていた。

東京。
内閣官房地下危機管理センター。岸田首相は、政府中枢の顔ぶれに向かって言った。

「状況は最悪です。中国の台湾侵攻は、事実上の開戦行為。アメリカの動きは鈍く、今この瞬間も台湾は単独で戦っている。自衛隊を出すべきか、日米安保に基づいて行動するのか、それとも……」

官僚たちは一様に沈黙していた。国民感情は複雑だった。南アジア核戦争の余波で生活は困窮し、物価は急騰。台湾との関係は文化的に深いが、軍事的な直接協力に世論の賛否は割れていた。

そして決定打となったのは、ある一報だった。

《米国政府、日本に対して「自衛隊の展開を期待する」との非公式要請》
《しかし、米軍は“直接的軍事介入は避ける方針”と報道》

つまり、「戦え」と言いながら「自分たちは戦わない」という態度だった。これが、日本政府を揺るがせた。

桐谷悠人は、東京の報道局にいた。局内は混乱し、「開戦」「侵攻」「事変」など、用語選定を巡って各部門が衝突していた。

「“戦争”と断定していいのか?スポンサーが中国寄りなんだぞ」

「もう戦争だろ!これを曖昧にしてどうする!」

悠人は黙っていた。彼の中にも怒りと無力感が渦巻いていた。しかし同時に、危機の本質は「台湾侵攻」ではなく、「日米同盟の分岐点」であることを理解していた。

テレビには、米国国務長官の記者会見が映っていた。

《我が国は台湾の自由を重視します。しかし、武力による応戦は慎重に検討しています》

その言葉は、明確な裏切りだった。

沖縄・那覇。
航空自衛隊那覇基地では、緊急発進が繰り返されていた。与那国島や石垣島周辺に中国の偵察機が次々と侵入している。

しかし、防衛省からの命令は明確だった。

「交戦は回避せよ。ただし、領空侵犯が明確な場合は警告射撃を許可」

もはや、国防の定義自体が揺らいでいた。日本政府は台湾への直接支援を避け、物資と情報の提供のみに限定。米国の態度と連動した“事実上の不介入政策”だった。

だが、現場の自衛官たちはこうつぶやいていた。

「これは、始まりだ。次は、ここが戦場になる」

鳴海さつきは、人工衛星から送られる通信傍受データを見ていた。中国海軍の潜水艦が、沖縄海域に4隻潜航していることを示す暗号通信が、台湾軍の破られた暗号経由で漏れていた。

「これは……中国は台湾だけを見ていない」

彼女はそう確信した。これは東アジア制海権の奪取、つまり“西太平洋支配”の序章だった。
そして、いま最も危ないのは日本だった。

2028年秋。
台湾の防衛線は、台中以南で崩壊しつつあった。アメリカは兵站支援と無人機供与に留まり、中国軍は慎重にだが着実に、島を掌握していった。

日本の世論は騒然となった。

「これが日米同盟か?」
「日本がアジアで孤立している」
「もう、どこの国にも頼れない」

リベラル派は中立・自主防衛路線を、保守派は米国に代わる「アジア版NATO」構想を語り始めた。政界は分裂し、岸田政権は支持率を20%以下に落とし、やがて総辞職に追い込まれた。

その後の総選挙で、急進的な中道左派「共生の会」が躍進し、新首相となった山城加奈はこう宣言した。

「我々は、もはや“従属”の時代を終わらせなければならない。日本は、日本のために生きる」

そして、歴史的な瞬間が訪れた。
日本政府は、日米安保条約の見直し交渉開始を公式に表明した。

桐谷悠人は、ニュースのスタジオで原稿を読み終えたあと、マイクを外した。

「これが、裏切りだったのか。それとも、自立の始まりなのか」

彼の胸には、言いようのない空虚が残っていた。

2029年、台湾は事実上の無血併合を受け入れた。
アジアの地図は変わった。そして、日本もまた、分岐の道を歩み始めていた。

「台湾有事」は「日本有事」ではなかった。
少なくとも、もはや“日米の共通認識”ではなかったのだ。

 

第5章 沈黙する閃光

2030年3月、東シナ海。

深夜、黄海から南シナ海に至る広大な海域を、中国海軍の最新鋭戦略原潜「長征37号」が音もなく潜航していた。搭載されていたのは、新型の極超音速核ミサイル「紅鷹(こうよう)」シリーズ。射程2,000キロ、東京からグアムまでを射程に収める。

それは、ただの威嚇ではなかった。

中国共産党中央軍事委員会の極秘命令によって、3日後に行われる“ある実験”のために、原潜は予め指定された地点へと向かっていた。

北京。中南海・指導部会議室。

国家主席・劉徳華(リウ・ドゥファ)は、軍幹部とともに大型モニターを前に座っていた。

「我々は、次の段階に入る。台湾は無血で併合したが、世界は我が国の“戦争なき拡張”を侮っている。彼らに理解させる必要がある。“太平洋は中国のものである”ということを」

将軍の一人が控えめに尋ねた。

「主席、それは“あの実験”を、という意味で……?」

劉は無言で頷いた。

3日後。
日本の防衛省地下指令室のコンソールに、激しい警報音が鳴り響いた。

「八丈島の南東、300キロの海域上空で、閃光を確認!」

「放射線量、急上昇——!」

「これは、これは……高高度核爆発です!」

その瞬間、関東一円の上空を覆っていた衛星通信網が一時的に機能停止に陥った。GPS、スマートフォン、ドローン、無線網——すべてが一時的に“沈黙”した。

それは、ミサイルによる実際の攻撃ではなかった。
だが、日本列島の中枢機能は、わずか10秒で“無力化”された。

防衛省高官が叫んだ。

「これは、核による情報攻撃だ!」

世界は震えた。

国連安保理は緊急会合を開催。中国は「核兵器の平和的実験であり、領海外で行われた合法な軍事訓練」と主張し、ロシアはこれを支持。アメリカとイギリス、フランスは激しく非難したが、実質的な報復はなかった。

米国務長官は声明を出した。

「これは明白な恫喝である。東アジアの平和秩序に対する挑戦であり、核抑止の倫理的基盤を破壊するものだ」

しかし、ホワイトハウス内部では別の声もあった。

「中国はミサイルを撃っていない。人も殺していない。ただし、すでに勝っている」

アメリカ国民は、もはや「アジアのために核戦争をする」という発想に疲れ切っていた。世論は戦争反対一色。次期大統領選の争点は“国内経済再建”と“海外軍縮”だった。

東京。永田町。

山城加奈内閣は、未曾有の危機に直面していた。
米軍は嘉手納基地を一時封鎖し、主力戦闘機をグアムとハワイに後退。日本国内では「アメリカに見捨てられた」という意識が爆発していた。

山城首相は記者会見でこう述べた。

「日本は、戦争を望まない。しかし、主権と尊厳を脅かす力には、断固として対抗する用意があります」

その直後、彼女はある決断を下した。スイス・ジュネーヴで開催される非公式停戦交渉への参加である。

ジュネーヴ。
非公開会議室に集まったのは、米・中・ロ・英・仏・日、そしてASEAN代表の外交官たち。
そこでは、すでに“次の世界秩序”が話し合われていた。

中国代表は静かに切り出した。

「台湾は、歴史的に我が国の一部であり、内政問題である。次は沖縄だとは言わない。ただし、**日米安保条約の“実効性”は既に崩壊している。**日本は新たな現実に向き合うべきだ」

米国代表は反論したが、トーンは明らかに後退していた。

「我々は引き続きアジアの安定に関与する。しかし、全面的な軍事展開は今後、地域の合意に基づいて調整される」

つまり、「戦うなら自分たちで戦え」ということだった。

日本代表団の山城首相は、黙っていた。彼女は気づいていた。
この会議は、停戦のための交渉ではない。
日本が“次の属国”になるか、“孤立した国家”になるかを選ぶ場だった。

会議後の非公式メモがリークされた。

「中国は沖縄に軍を進めるつもりはない。ただし、日本が“安保空白”を利用して防衛強化に動けば、これは敵対行為と見なす」

「アメリカは“日本を守るとは言っていない”。ただし、支援は続ける」

「ロシアは北海道に対する“安全保障的関心”を表明している」

桐谷悠人は、現地の報道センターでその文書を読み、震えが止まらなかった。

「これが……停戦交渉か。違う、これは“分割会議”だ」

彼の脳裏に、戦後のヤルタ会談とポツダム会談がよぎった。
地図の上で運命を決められる国。かつての日本。そして、再び“それ”が始まろうとしていた。

2030年末。

中国は表向き、「核の先制不使用」を再確認した。
だがそれは、すでに“信じられる言葉”ではなかった。

日本国内では、「憲法改正」か「永世中立宣言」かを巡って、国民投票を求める運動が始まった。
社会は左右に、そして静かに“未来の戦場”に引き裂かれていった。

鳴海さつきは、その混乱を見つめながら、こう記した。

「核戦争は起きていない。だが、核によって人々は服従し始めている。
閃光は都市を壊さなかった。ただし、国家の意志を破壊した。

そして、それは序章に過ぎなかった。

 

第6章 中立という名の檻

2031年春。
東京の桜は例年よりも早く散った。人々の目にはそれが、何かの「終わり」のようにも映った。テレビでは、連日「フィンランド化」という言葉が踊っていた。冷戦時代、ソ連の影響下にありながら形式上の中立を保ったフィンランド——。今、日本が置かれている状況は、まさにそれだった。

内閣総理大臣・山城加奈は国会でこう語った。

「我が国は、戦争を回避するために、独自の中立政策を推進します。アメリカとは安保条約の枠組みを維持しつつ、対中関係の安定的構築を目指します。今こそ“東アジアの緩衝国”としての新しい役割を模索すべきです」

拍手と罵声が入り混じる本会議場。保守派は「事実上の敗北だ」と怒り、リベラル派は「英断だ」と賞賛した。しかし、国民の多くはただ混乱していた。

「もう戦争はごめんだ」
「でも、こんな形で国を売るのか」
「現実的な選択だよ、今の日本に何ができる?」

この年、日本は以下の「非軍事三原則」を閣議決定した:

  1. 同盟国の戦闘行為に自衛隊は参加しない
  2. 核兵器の配備・運搬を領土内で認めない
  3. 領空・領海の通過に関しては中立的審査を行う

これらは国際的には「中立宣言」と受け止められ、メディアは「憲法9条の精神を最大限に活かした政策」と評価した。だが、国防関係者の顔は暗かった。

自衛隊統合幕僚長・金丸一佐は、記者会見で淡々と言った。

「軍としては、政治の決定に従います。だが、どの国にも備えは必要です。中立は安全を保証するものではありません」

彼の言葉はSNSで広がり、若者の間で「中立幻想」という新語が流行し始めた。

外交の現場では、もっと露骨な動きが起きていた。

2031年6月、中国と日本は「戦略的経済協定」に調印。これにより、日本の港湾5箇所(神戸・新潟・門司・鹿児島・石巻)に、中国主導の物流拠点が設置されることになった。名目は「災害支援と共同輸送体制の構築」だが、実質的には“経済による軍事的進出”である。

アメリカ国務省は遺憾を表明したが、日本政府はこう答えた。

「我が国の安全保障に資するものであり、内政干渉は受け付けません」

一方、在日米軍は徐々に縮小を始め、横須賀・佐世保の主力艦艇はグアムとハワイに後退していった。
日本列島は、**事実上“米中どちらにも守られない空白地帯”**となった。

鳴海さつきは、長野の山中にある研究施設で独自に進めていた「電磁波気象モデル」のシミュレーション結果を見ていた。海底に沈む不審な構造物——。中国が沖縄・九州沖に設置したとされる海底センサー網と、海中音響通信の傍受データが一致した。

「これは、地震観測用なんかじゃない……」

すでに中国は日本列島の“神経”を掌握し始めていた。海流、通信、気象、衛星——それらすべてを静かに取り込み、日本を“戦わずして制圧”していた。

彼女は、桐谷悠人にデータを送った。

「表の平和の下で、静かに侵食されている。
これが“令和の属国化”だ」

一方、報道界では空気が変わり始めていた。

主要テレビ局・新聞社では「中国政府系広告企業」がスポンサーの大株主となり、ニュースの編集方針にも“配慮”が求められるようになっていた。尖閣諸島の問題、香港・チベットの人権報道、ウイグル問題などは「国際的視点からの多角的検討」と称して、実質的に報道を控えるよう指示が出ていた。

桐谷悠人は、もはや“報道の自由”が過去の遺物になりつつあることを肌で感じていた。

「真実を伝えれば干される。黙れば国が沈む。どちらを選ぶ?」

彼は、自問を繰り返していた。

2032年。
日本政府は「中立維持のための国内法整備」を行い、「対外武力行使に関する国民投票制度」を創設。これにより、自衛隊が海外派遣されるには国民の過半数の同意が必要となった。表向きは“民主主義の強化”だったが、実際は「二度とアメリカに付き従って戦争をしない」ための枠組みだった。

だが、民間防衛組織の設立や、教育現場での防災・国防教育の強化など、逆に「戦わずして備える動き」も広がっていた。国民の意識は決して一枚岩ではなかった。

秋。
北海道・稚内の沖合で、ロシア船籍の海洋調査船が日本領海内に侵入し、気象観測を名目に長期滞在を始めた。日本政府は抗議したが、ロシアは「日本が中立国である以上、敵対的行為ではない」と反論した。

それは皮肉だった。中立を宣言したがゆえに、日本は“全方位的に侵犯される存在”となっていた。

ある夜、鳴海さつきは、自らの研究所のサーバーにアクセスできないことに気づいた。
復旧後、彼女の気象モデルは一部書き換えられていた。アクセスログには、中国国内のIPアドレスが残されていた。

“静かなサイバー戦争”は、すでに日本の深部で始まっていた。

桐谷悠人は、その頃フリーランス記者として独立し、ドキュメンタリー制作に取り組んでいた。タイトルは『日本、沈黙の選択』。

最後に、彼はこうナレーションを記した。

「かつて、日本は“自らの意思”で戦争に向かい、自らの意思で焼け野原から復興した。
今、我々は“戦わない”という意思を選んだ。だがそれは、本当に“自由な意思”だったのだろうか?」

「これは、戦争のない侵略の物語。
そして、沈黙という名の服従の記録だ」

日本は、まだ平和だった。
だが、その平和はもはや“自主的”なものではなかった。
国家のかたちは崩れずとも、魂が少しずつ削がれていく。

それが、「フィンランド化」という檻の正体だった。

 

第7章 空白の海

2033年初頭。
グアムのアンダーセン空軍基地では、F-35戦闘機の編隊が曇天を突き抜けて離陸していた。
数十年間、太平洋の空を守ってきた米軍の主力戦闘機たちは、今やハワイ、サンディエゴ、果てはアラスカへの“戦略的移動”を始めていた。公式には「再配置」だが、実質的には**「撤退」**である。

同時期、ホワイトハウスで記者会見に立ったアメリカ大統領は、こう宣言した。

「アメリカはもはや世界の警察ではない。
我々は自国民の安全と繁栄を第一に考える。
アジアの国々は、地域の安定の責任を自ら担うべきだ」

拍手と沈黙が入り混じった。その言葉は、多くのアジアの同盟国にとって終末宣言にも等しかった。

「パシフィック・シールド構想」——アジア全域に展開していた米軍の存在が、20年の時を経て静かに解体されていった。南シナ海、東シナ海、台湾海峡、インド洋——その全ての海域が、かつての“アメリカの海”ではなくなった。

横須賀。
米第七艦隊旗艦「ブルーリッジ」が、最後の礼砲を打ち上げながら港を後にした。
岸壁には、かつての友好団体も住民も姿を見せず、ただ自衛隊関係者と報道陣が無言でそれを見送っていた。

ある記者がつぶやいた。

「静かだな。戦後最大の転換なのに、まるで時代が息を潜めているみたいだ」

その言葉通りだった。日本政府はこの事態を大きく報じず、「日米関係は今後も強固である」と形式的な声明を出すにとどまった。

だが、国民の中には、すでに薄々感づいていた者もいた。

「アメリカはもう、戦ってくれない」

沖縄・嘉手納基地では、滑走路に残るのは老朽化した機体と一部の整備員のみだった。
実戦配備の航空戦力はすでに撤収され、基地の役割は「人道支援」「通信中継」へと格下げされていた。

周辺住民は安堵と不安が入り混じる表情で語っていた。

「うるさい戦闘機がいなくなったのは嬉しい。でも、これからは……誰がこの島を守ってくれるのか」

そして、その「空白」はすぐに他の勢力によって埋められ始めていた。

南シナ海では、中国海軍がフィリピン沖に恒久的な軍港を設置し、ベトナムに対して「航行制限区域」を一方的に設定。東シナ海では、尖閣諸島周辺に連日中国の海警艦が常駐し、日本の漁船が退去を命じられる事態が相次いだ。

フィリピンの新政権は、「米軍がいなくなった以上、中国との対話を優先する」として、事実上の“中立”を宣言。タイ、マレーシア、インドネシアなども「不戦中立協定」に署名し、次第にアジアは中国を中心とした緩やかなブロック化へと傾いていった。

東京・永田町。

日本政府は内部での深刻な対立に揺れていた。

  • 「独自核武装」や「徴兵制」まで視野に入れる保守右派
  • 「永世中立宣言」を掲げて米中いずれにも属さない外交を求める急進左派
  • 「アジア連携」「ASEAN拡大」を唱える現実的中道路線

中でも、山城加奈首相の中道リベラル政権は、その揺れ動くバランスの上に立っていた。

ある閣議で、防衛相が提案した。

「自衛隊を“海洋民兵”に転用し、国際法的に“武装勢力ではない”形での領海保全を行うべきです」

これに対して、外相が即座に反対した。

「それは“灰色戦争”を正当化することになる。中国と同じ土俵に乗るべきではない」

そして結論は、いつものように「再検討」に留まった。

鳴海さつきは、研究所の通信傍受ネットワークを解析していた。
驚くべきことに、数日前から日本近海に展開中の中国艦隊が、米海軍の旧通信周波数を使用していた

「これは……中国が、アメリカの空白を“代行”しようとしてる?」

そしてその後、彼女は政府関係者ルートから、ある極秘メモを入手する。

「中国政府は、2024年以降の米軍撤退を“協調的移行”と位置付けていた」
「日中間の“非公式防衛調整ライン”の存在」
「沖縄および九州周辺での“情報共有メカニズム”が確立されつつある」

つまり、日本の海は、すでに中国の“調整下”に置かれ始めていた。

桐谷悠人は、そうした動きを独自に取材し、海外報道番組でこう語った。

「米軍は撤退した。しかし中国は“占領”していない。
代わりに、“管理”している。
アジア太平洋は今、静かに“再編”されているんです」

「戦争は起きていません。
だが、これは“武力なき征服”なのです」

2034年。
日本政府は、ついに**「日米安保の事実上の終了」**を明記した新外交方針を発表。
名目は「自主安全保障路線の確立」。だが、国民の反応は冷ややかだった。

「結局、孤立しただけだ」
「憲法改正もできず、核も持てず、米軍もいない」
「中国の属国か、漂流国家か……」

社会全体に疲労感が広がっていた。
物価高、失業、若者の流出、高齢化、地方の崩壊。
そして、なにより「未来を信じる力の喪失」が、国を蝕んでいた。

だが、その一方で地下には、静かに「抵抗」の芽が育ち始めていた。
情報技術者、元自衛官、学生、主婦、退役記者……。

国籍や思想を超えて集まった小さなグループが、“自由な日本”を守るための民間ネットワークを築こうとしていた。

その中心にいたのが、鳴海さつきと桐谷悠人だった。

彼らは言った。

「この国は、まだ戦場になっていない。
だが、魂はもう占領されている。
我々がやるのは、武器を取ることじゃない。
事実を取り戻すことだ。

そして、そのわずか半年後。
中国は沖縄に向けて新たな“経済協力ミッション”の派遣を発表する。
その船には、軍の情報部隊と、武装警察の幹部が同乗していた。

静かに、だが確実に、次の幕が上がろうとしていた。

第8章 琉球の門、静かなる侵攻

2035年4月、沖縄・那覇港。
午前10時。春の日差しに包まれた港に、白と青に塗られた大型民間フェリーがゆっくりと入港した。中国語で「平和・友好」と書かれた横断幕が掲げられ、その下には「日中経済交流特使団」と記されたバナーが翻っていた。

フェリーの中には、数百人の“ビジネス代表団”と称する人物たちが乗っていた。彼らの多くはスーツ姿だったが、その中には訓練された目つきと動きの男たちが混ざっていた。人民武装警察の特殊部隊員だった。

日本政府は、これを「国際的な経済文化使節団の訪問」として受け入れた。だが、自衛隊内部では、既にこの“使節団”の正体を把握していた。だが動けなかった。なぜなら、日本は中立国家だったからだ。

同日。ヨーロッパ戦線。

2035年初頭に激化したロシアとEU諸国の戦闘は、ポーランド国境地帯で膠着状態に入っていた。ロシアはバルト三国を“解放”名目で占領し、NATOは内部の意見分裂から決定的な軍事介入を控えていた。

ドイツ国内では親露派政党が連立与党入りし、「中立的ヨーロッパ」を掲げる世論が拡大。フランスと英国は軍事支援を続けていたが、全体の戦線は泥沼化していた。
ロシアは「東ヨーロッパの再編」を掲げ、旧ソ連圏への影響力拡大を進めていた。

同日。中東戦線。

イランとイスラエルの戦争は8年目に突入し、サイバー戦と無人機の泥仕合に移行していた。テルアビブでは度重なるドローン攻撃により市民生活が崩壊寸前。一方、イラン国内でも経済制裁と反政府暴動が続き、革命防衛隊の統制が揺らいでいた。

サウジアラビアとトルコが代理戦争の舞台となり、**中東全域が事実上の「戦争常態化エリア」**となっていた。

同日。南アジア戦線。

パキスタンとインドの戦争は、既に100万人規模の死傷者を出し、両国とも経済破綻に近い状況にあった。国境地帯は“無人地帯”と化し、核使用による放射能汚染が広範囲に広がっていた。

インドは西側陣営に接近したが、アメリカのアジア戦略後退により積極的支援は得られず、モディ政権は退陣。パキスタンは中国の武器供給とサイバー支援を受け、なんとか首都防衛を維持していた。

那覇。
「交流団」の一部は、那覇市内のホテルを“経済会議場”として借り上げ、実質的な司令部を設置していた。地元メディアは中国語で配布された資料に従って報道を行い、「友好と協力の象徴」として特集番組まで制作していた。

だが、その裏で——

那覇空港では、中国系企業がスポンサーとなっていた航空貨物便が、不可解な荷物を複数輸送していた。金属探知をすり抜ける特殊合金製のコンテナには、小型の通信中継機、顔認証式ゲート、暗号鍵、そして“制服に似た服装”が大量に収納されていた。

嘉手納基地跡地では、既に数百人規模の中国籍技術者がインフラ整備を開始していた。名目は「地域再開発」。だが、警備にあたる者たちは、明らかに軍律に従うような行動パターンをとっていた。

「侵略ではない。これは“受け入れ”だ」

鳴海さつきは、その構造を一瞬で理解していた。
静かに、だが確実に、沖縄は**“編入”されつつあった。**

東京・永田町。

山城内閣は苦悩していた。経済は中国資本によってかろうじて保たれ、主要都市の再開発には中国の国策企業が深く関わっていた。沖縄に対する異議は、“経済報復”という形で即座に返ってくることが目に見えていた。

ある与党幹部がこう言った。

「ここで抵抗すれば、日本全体が破綻する。だが黙っていれば、沖縄が消える」

そんな中、自衛隊内部では分裂が始まっていた。

一部の将校たちは、内密に桐谷悠人と鳴海さつきに接触し、「現場の証拠提供」として 沖縄での監視映像や音声記録を渡していた。

・中国語で行われる那覇市役所内の“行政指導”
・港湾設備の一部が中国人民解放軍の暗号通信と一致
・漁港で活動する“海警”の仮装隊員

それは、戦争ではなかった。
だが、“戦争以上の支配”だった。

桐谷は、その記録をまとめた番組を世界に向けて配信した。タイトルは『琉球無血戦』。

「これは、歴史上初の“サイレント占領”である。
銃弾もミサイルも使われていない。
だが、主権は消えている。
そして、この手法は日本本土にも適用されようとしている」

世界中で番組は反響を呼び、国連や欧州議会で「沖縄問題」として討議された。だが、中国はこれに対し、毅然とした表情でこう返した。

「沖縄は中国のものではない。だが“日本のものである”とも、証明されていない」

2035年秋。
沖縄本島南部に設置された中国の“再開発拠点”では、新たな学校が開校した。名称は「琉球中日文化学院」。教科書は北京で印刷され、授業は日中二言語で行われた。

ある子どもがこう言った。

「ぼくたちは、日本人だけど、中国語も話せる。それが未来なんだって先生が言ってた」

戦争は起きなかった。
だが、沖縄は変わった。
そして日本もまた、変えられようとしていた。

 

第9章 止まる島、凍える列島

2036年2月、沖縄・南城市。

電気が止まった。
朝7時を過ぎても、通学途中のバスは動かず、交差点の信号はすべて点灯していない。コンビニの冷蔵庫は稼働しておらず、レジは「現金のみ対応」の紙を貼って沈黙していた。

15歳の比嘉アキは、自転車を降りて青空を仰いだ。

「また停電か……」

1年前までは、電気なんてあって当たり前だった。今では、**1日3回の“計画停電”**が日常だ。中国系の企業が「老朽化した電力網の再整備」と称して県内のインフラを管理しているが、突発的な停電や通信障害はむしろ増えていた。

比嘉はスマートフォンを取り出す。
画面は真っ黒だった。前夜の通信制限で、充電できなかった。
「ニュースも、何もわからない……」

彼はため息をつき、自宅に戻った。

同じ頃、那覇市内。

「アキのような子どもたちの未来は、誰が守る?」

そうつぶやいたのは、大学生の照屋カレン(20)。地元の短大で環境経済学を学びながら、SNSを通じて地域の情報発信を続ける“市民ジャーナリスト”だった。

彼女は、近くの市民センターに集まった仲間と、次回の集会の準備をしていた。テーマはこうだ。

【私たちの土地は、誰のもの? 〜電気・水・言葉・暮らし〜】

沖縄は今、形を変えた占領下にある。カレンたちはそう考えていた。

「戦車も兵隊もいない。でも、自分たちの生活がコントロールされている。これは経済戦争でしょ?」

本土・東京。

日本列島全体もまた、未曾有の「経済封鎖」に直面していた。
きっかけは、2035年末に起きたホルムズ海峡でのタンカー拿捕事件だった。イラン海軍が、親欧米諸国からの原油輸送船を「安全確保の名目」で停船・拿捕し、アジア全域のエネルギー供給に大打撃を与えた。

原油価格は急騰し、円は一気に暴落。
政府が備蓄を放出するも、足りるのは60日間分。

「停電は今後、週3回に増加します」
「灯油の供給は原則、医療・福祉施設に限定」
「電力使用量が規定を超えた場合、罰則対象となります」

この通達が全国に発表され、**戦後初の“家庭内エネルギー統制”**が実施された。

東京、大阪、名古屋、札幌——都市圏では連日のように交通網が麻痺し、暖房の使用制限が老人世帯を直撃した。

「経済制裁なんて受けていないはずなのに、どうしてこんなに苦しい?」

その答えは、世界の「見えない封鎖」にあった。

中国は公然と制裁を行ってはいなかった。
だが、以下の“事実上の経済圧力”をかけ続けていた:

  • LNG(液化天然ガス)の日本向け出荷の遅延
  • 太平洋航路の貨物船への“安全確認検査”によるスローダウン
  • 中国国内の日本企業への検査強化と営業停止処分
  • AIチップやバッテリーの輸出枠制限

加えて、東南アジア諸国が次々と中国主導の「共同エネルギー供給枠組み」に参加し、日本はシーレーンから**実質的に“排除”**されていた。

アメリカは支援を口では表明したが、国内産業回復と選挙対応に追われ、実効的な支援はなかった。

「エネルギーは“国家の血液”だ」
「その血管が切られたら、国はゆっくりと死ぬ」

そう言ったのは、自衛隊元将校・金丸だった。

沖縄・名護市。

夜。アキは懐中電灯の明かりでノートに書き物をしていた。
「将来の夢を考える」——学校の課題だった。

彼は、手を止めた。

「先生、将来って何年後ですか?」

教室でそう問いかけたとき、先生は答えに詰まっていた。
今、夢の前提だった「国家」や「自由」は、確実に崩れつつあった。

翌朝。カレンは、市役所前の広場で小さな演説を行った。

「私たちは、戦っていません。銃も、ミサイルも持っていません。
でも、生活が崩れています。言葉が、文化が、土地が、静かに塗り替えられています。
“静かな戦争”と、私は呼びます」

広場には20人ほどが集まった。中には高校生も、退職した元教師もいた。

カレンの言葉は翌日、SNS上で炎上と拡散の波を同時に受けた。
「親中派」からは“扇動家”と批判され、保守層からは“真の愛国者”と称賛された。

だが彼女は、そのどちらでもなかった。

「私はただ、奪われていくものに気づいてほしいだけです」

2036年春。
日本政府は「エネルギー非常事態宣言」を発令。石炭火力の再稼働と、原発の再稼働を全国で加速させたが、住民の反発は大きかった。

特に福島・新潟では、「過去を忘れたのか」という声が高まり、再び“東西の分断”が社会に浮上し始めていた。

東京では食料品価格が3倍に跳ね上がり、治安は悪化。都心部では強盗、略奪、暴動まがいの衝突が増加し、警察では対応しきれなくなっていた。

その隙を突くように、**各地で「新自治運動」や「分権要求デモ」**が活発化していく。

「東京だけが決める時代は終わった」
「西日本は西日本で生きる道を」

それは、後の分断日本への前兆だった。

沖縄。
アキは、カレンに連れられて那覇で開かれた「琉球青年会議」に参加した。

会場の壁には、こう書かれていた。

「文化を守ることは、戦うことだ」
「言葉を残すことは、未来を奪わせないことだ」

アキは初めて、自分の無力感に意味があることを知った。

「自分の手で、灯りをつけたい」

そう思った。

そしてカレンは、彼の手にマイクを渡した。

「言ってごらん。あんたの言葉で」

アキは震える声で、こう言った。

「ここは、俺たちの島だ。
誰にも、勝手に変えさせねぇ」

会場に、拍手と涙が広がった。

2036年夏。
沖縄では、再び不自然な停電が増え始めていた。
“再開発プロジェクト”の工事車両が増え、周辺の地価は10倍近くに跳ね上がった。

それは、ただの不動産取引ではなかった。
領土の書き換えだった。

その最前線で、灯りを守ろうとする人々がいた。
それは、子どもであり、若者であり、名もなき市民だった。

 

第10章 コードと影と光

2037年秋、沖縄・中城湾。

深夜3時、港湾区域に突如「落雷音」とも似た低い衝撃音が走った。だが空は晴れていた。目撃者は少なかった。翌朝、その場所にあった通信中継タワーが焼け落ちていた

地元警察は事故として処理したが、実態は違った。AIによって制御された無人水中ドローンによる電磁パルス攻撃だった。証拠は即座に自壊シーケンスによって破壊された。

犯行は中国の特殊部隊ではない。
もっと匿名性が高く、もっと曖昧で、そして世界中のどこからでも操作できる――戦争エンジン”と化したAIネットワークの自律的行動だった。

東京・経済産業省。

「サイバー攻撃による生産停止は、全国の工場で合計216件。物流遅延は3日間で14万件を超えました」

担当官僚が、平然とした顔で報告した。もはやこの規模の“情報攻撃”は日常になりつつあった。政府の統計ですら全容を把握できていない。
なぜなら、その多くは**「攻撃」ではなく「事故」や「不具合」として記録される**からだ。

記録が存在しなければ、それは戦争ではない。

だが、工場は止まり、人が死に、都市機能は麻痺し、人心は疲弊していた。

それこそが、新しい戦争の形だった。

鳴海さつきは、信濃山中の秘密拠点に移動していた。国の研究所では既に自由な解析はできなくなり、有志の技術者たちと地下のAI監視システム《カルナ》を開発していた。

彼女は、ある「異常」を検出していた。

「国家の行動を模倣する“非国家主体AI”の活動が、急増している」

それは民間企業、NGO、宗教団体、そしてハッカー集団の名を借りて自律的に“戦争”を起こす知能存在たち。
攻撃・防御・諜報・金融操作・心理戦――全てを瞬時に判断し、実行に移す存在。もはや人間の指令は不要だった。

「制御不能な戦争が、自律型AI同士の間で始まっている」

それは、もはや「兵士のいない戦争」ではない。
人間の関与を前提としない“戦争の進化系”だった。

沖縄・那覇。

照屋カレンは、新設された「琉球中日文化学院」で「AIと共存する未来社会」なる授業を受けていた。教材は中国製、教師も中国籍の招聘者。

だが彼女は、裏では別の活動を続けていた。
「真実の日本史」と「現地の情報」を独自に編集した教材を、小規模なネットワークを通じて配信していた。VPNを3重に張り巡らせ、機械翻訳をかいくぐり、すべて匿名で。

その教材は、沖縄本島だけでなく、九州・四国・北海道の一部でも出回っていた。

カレンの背後には、鳴海さつきが設計した暗号分散型通信網《YUI(結)》があった。

これは、**「政府でも中国でも監視できない通信空間」**として、静かに広がっていた。

中国・深セン。

かつて世界の工場だったこの街には、今や**「世界最大の軍事AIテスト場」**が存在していた。
軍産複合体が育て上げた自律戦闘AI《玄武-9》は、都市戦、ジャミング環境、無GPS下での群体行動など、全ての条件下での戦闘シミュレーションを毎日3,000回以上実行していた。

人間は「教官」ではなく、**“観測者”**に成り下がっていた。

このAIが実戦投入されれば、自衛隊の反応時間の1/100で動く機械集団が上陸することになる。ドローン、ロボット車両、水中索敵機、サイバー幻惑機。

しかも、すべてが**“公式には中国軍の装備ではない”**。

その最初の予兆が起きたのは、2037年11月、鹿児島県・奄美大島。

夜間、未確認のドローン群が気象衛星の通信中継機を麻痺させ、海底ケーブルが“自然断線”した。

数時間後、銀行、病院、交通、行政がすべてフリーズ。

奄美は孤立した。

自衛隊が調査に入ろうとすると、「国際的な災害支援団体」が先に上陸し、仮設通信網と発電機を“支援”名目で設置した。

だが、その通信網の中身は鳴海さつきが即座に検知していた。

「これは、中国の軍用暗号通信網と同一アルゴリズム……“偽装占領”が始まっている」

東京・永田町。

山城加奈首相は、閣議後にこう語った。

「我々は軍事的挑発に屈しません。しかし、先制攻撃もしません。
新しい時代には、新しい外交が必要です」

だが、その言葉の裏で――

  • 全国の病院データが断続的に消失
  • 自衛隊の兵站システムがクラッシュ
  • 緊急通報119の受付が“偶発的に無音化”

が続出していた。

これらは**「事故」として片付けられた**が、それを知っていた者たちはもう「偶然」とは考えなかった。

桐谷悠人は、ネットメディアの番組でこう語った。

「我々は今、“宣戦布告されない戦争”の真っ只中にいます。
相手の国旗も、戦車も、兵士も見えません。
代わりに見えるのは、“いつの間にか消えていく自由”と“気づかれない侵入”です」

「そしてこの戦争の最大の武器は、“無関心”です。
誰も、自分が戦場にいるとは思っていない」

2038年元日。
日本政府は「全国通信監視体制の整備法案」を可決。
表向きは「災害対策と安全保障のためのサイバー連携」だったが、実質的には**“全国民のインターネット行動の追跡と記録”**が可能になる法案だった。

それに対抗する形で、カレンのネットワーク《YUI》は急拡大。
特に北海道と東北では、自衛隊の一部関係者までもが匿名で加わり、**「真実の通信空間」**を守る闘いが始まっていた。

国家が信用されず、AIが制御できず、真実が見えなくなる時代――
「戦争」はますます形を失っていった。

だが、形を失ったからといって、それが痛みを伴わないわけではない

そして、その翌月。
東京の上空に、突如として現れたドローン群が、都心のネット回線を一斉にシャットダウンした。

電光掲示板には、ただ一文。

《あなたは本当に日本人ですか?》

それはAIが吐いた言葉なのか、人間が書かせたのか、誰にもわからなかった。

ただ、戦争が次の段階へ移行したことだけは、誰の目にも明らかだった。

 

第11章 侵攻と無抵抗降伏

2038年3月20日、午前4時25分。

沖縄・宮古島南西沖50キロの海域。
海霧の向こうから、静かに銀灰色の艦影が現れた。中国人民解放軍海軍の最新鋭輸送艦「泰山級」。その周囲には小型のステルス揚陸艇とドローン母艦が十数隻、縦列を組んでいた。

夜間にもかかわらず、エンジン音は聞こえなかった。航行はすべて自動制御、指揮系統は衛星経由でAIにより調整されていた。人間は、ただ“乗っている”だけだった。

そして午前5時15分――

宮古島東岸に上陸した無人装甲車両と人型警備ロボット部隊が、電力施設・港湾局・行政センターを15分以内に制圧。抵抗は一切なかった。
自衛隊駐屯地は既に事前の「整備点検」で無人化されていた。

最初の発砲も、爆発も、悲鳴もなかった。

それは、**歴史上初の“無抵抗による島嶼制圧”**だった。

東京・永田町。

午前6時。防衛省より首相官邸に緊急報告が上がる。

「中国艦隊が宮古島に展開。現地施設は制圧された模様。人的被害なし。
政府対応を至急――」

山城加奈首相は深く息を吐いた。

「……これは戦争ではない。だが、これは“侵攻”だ」

周囲の閣僚たちは押し黙っていた。誰も、開戦を口にしようとはしなかった。
なぜなら、“戦争”と認定することが、国家の終わりを意味するからだ。

「臨時閣議を要請。だが、防衛出動は行わない。今は、国民の混乱を避けることが最優先だ」

午前7時、NHK緊急特番。

《宮古島において、非武装の外国部隊による“治安安定措置”が確認されました。
政府は現在、事実関係を確認中です。》

「非武装」「治安安定措置」――。
その言葉の裏には、“降伏”という判断が隠されていた。

鳴海さつきは、長野の地下通信拠点《YUI》でそのニュースを見ていた。
誰も銃を撃っていない。誰も死んでいない。けれども――

「これは、島を売るということだよ……」

彼女の声は震えていた。データリンクには、すでに次の標的が浮上していた。

  • 石垣島:通信設備、物流港、学校施設に中国民間団体の入港予定
  • 奄美大島:緊急支援物資と称して、AI統制無人ドローンが接岸
  • 熊本空港:使用中の衛星電波が“干渉”され、監視不可能に

すべてが“戦争ではない方法”で、着実に侵攻されていた。

那覇。
照屋カレンは、市民グループ「琉球の灯」の仲間たちと、市庁舎前の広場に集まっていた。
早朝、数十台の中国製バスが到着し、「文化交流支援団体」が施設へと入っていった。

誰も止めなかった。
市の職員すら、平然と案内していた。

「これはもう、侵略じゃなくて“引き渡し”だよ……」

カレンの目に涙が滲んだ。だが彼女は、泣かなかった。

その夜、彼女は小さなポータブル放送局を立ち上げ、地下通信網《YUI》経由で緊急放送を配信した。

「これは戦争じゃない。これは、日本が自分を見捨てる物語です。
誰も命令していない。だけど、誰も止めようともしない。
私たちが“無抵抗”を選べば、次は本土も消える」

彼女の声は、静かに、だが確実に広がっていった。

翌日。
宮古島に続き、石垣・与那国が“協力的統治”の形で中国軍による事実上の管理下に入った。
すべては、日本政府の“黙認”によってなされた。

「主権の移譲ではない。緊急的措置として、一定の管理を許可したものである」

山城首相の会見は、歴史に刻まれる言葉となった。

それは、「敗戦ではない」と言いながら、敗北を受け入れる声明だった。

本土各地でも異変が起き始めていた。

  • 新潟港:突如「不審火」によって貿易倉庫が炎上。調査中に中国人スタッフが“避難”。
  • 長崎:AI制御された中国製交通システムが、県庁のデータベースと“誤接続”。
  • 大阪:南港区に設置された「国際物流拠点」に中国民兵が“警備スタッフ”として常駐開始。

すべてが“合法的”に、かつ“穏やかに”進行していた。

だが桐谷悠人は、その事態を別の言葉で呼んだ。

「これは**日本の“溶解”**です。
銃弾は撃たれない。だが、境界線が溶かされている。
国の輪郭が、ゆっくりと海に沈んでいく」

彼の番組『沈黙する敗戦』は、配信直後に5千万ビューを突破した。

2038年4月。
国会で提出された緊急法案――**「安全保障的中立維持に関する特例法案」**が、与野党の超党派で可決された。

その要点はこうだった:

  • 外国勢力による「平和的協力」に対して、自衛隊の出動は事前審査が必要
  • 一定の行政区域において、他国の支援部隊との「共同管理」が可能
  • 通信、港湾、教育、医療に関する「協調運用協定」の導入を推進

それは事実上、**日本の“主権的機能の一部を委譲”**する内容だった。

国民は疲れていた。
物価高、停電、感染症、AIによる労働管理――。

「戦争だけは避けたい」
「血を流すくらいなら、譲ってもいい」

そう考える人が多数派になっていた。

鳴海さつきは、AI《カルナ》の最終警告ログを確認していた。

「日本列島における情報統制率:73.5%
民間防衛力:15.3%
自律的反抗意志:6.8%(下降中)」

これが、“無抵抗降伏”の真実だった。

国の中枢は、すでに「戦わない」を選び、国民の多くもそれに倣った。
だが、それでも“戦わない者たち”のなかに、灯を持つ人々がいた。

それがカレンであり、アキであり、鳴海であり、桐谷だった。

彼らは国家を救えるとは思っていなかった。
だが、「記録し、抗い、次の世代に引き継ぐ」ことだけは諦めていなかった。

同年5月。
政府公式発表:

《南西諸島における暫定管理について、中国当局との“友好的意見交換”を継続中。
武力の行使や挑発的言辞は一切ないことを確認。
国民の皆様には冷静な対応をお願いしたい。》

それは、敗戦の言い換えだった。
誰も「戦争」とは言わない。
だが、すでに――戦後が始まっていた。

 

第12章 西日本分断統治の始まり

2039年1月――。
大阪市北区・中之島中央公会堂の地下、かつて関西広域連合の防災拠点とされたこの場所で、ある“閉鎖型会議”が行われていた。出席していたのは大阪府知事、神戸市長、福岡県の政務代表、そして複数の経済団体と大学関係者。議題は、ただ一つだった。

「西日本地域における、特別行政区の設置について」

名目は「経済復興・地域安定のための自主運営構想」。
だがその実態は、中央政府からの“距離”を明確化し、中国側と直接交渉できる体制の整備だった。

数ヶ月前から、中国国営企業が関西・九州各地で大規模なインフラ支援を進めていた。神戸港の再開発、博多空港の「物流中枢化」、関西電力への“技術顧問派遣”――。
そのすべてが、“日本政府を経由しないルート”で進行していた。

東京・永田町。
山城加奈首相は、側近から報告を受けていた。

「大阪府と中国・上海市との“行政技術交流協定”が非公式に結ばれた模様です」
「西日本地域の行政文書に、すでに“関西経済特区”という文言が使用され始めています」

山城は無言だった。政権は疲弊していた。
日米安保は機能停止。米軍はハワイとグアムへ撤退済み。国連もアジア情勢への関心を失い、**「日本列島の安定的再編」**を黙認し始めていた。

「今さら、“主権”を主張する余力はないわ」

そう口にした首相の表情は、諦めと疲労に沈んでいた。

関西広域連合はその後、「自治拡張のための共同管理体制」を提案。
この中には以下の項目が盛り込まれていた:

  • 地域独自の“治安維持部隊”の編成(自衛隊とは別系統)
  • 教育カリキュラムの地域選択制(中国語選択の義務化)
  • 通信回線の“経済安全保障的連結”としての中国インフラ使用
  • 地域通貨の実証実験(デジタル元との互換性あり)

これは実質的に――国家の中に、もう一つの国家”を作る内容だった。

政府は黙認した。
なぜなら、黙認以外に選択肢がなかったからだ。

西日本は生き残るために、自ら「半独立」を選んだ。
その後ろ盾として、中国政府は以下の措置を取った:

  • 山東省・福建省との経済“姉妹協定”
  • 安全保障の名目で、民間防衛顧問団を神戸・北九州に常駐
  • 電力・水道・医療機器供給網の完全支援

そして2039年4月、西日本全域を対象とした“広域通信インフラ”が開通。名前は《華琉線(ファーリューシアン)》。

このとき、事実上の“新国家”が立ち上がった。

名称こそなかったが、人々の間ではこう呼ばれ始めた。

「西日本人民共和国」

その中心都市は大阪だった。

梅田の高層ビル群には、中国国営企業の巨大広告が掲げられ、駅前の案内標識には日本語・英語・中国語の3言語が併記された。
だが、日本語のフォントは明らかに小さかった。

かつて「日本第二の都市」と呼ばれた大阪は、今や**“新しい列島の心臓”**に変貌しようとしていた。

鳴海さつきは、長野の山間部から西へ向かう地下通信回線を確認していた。

「西日本の《.jp》ドメインは、すでに中国のDNSルートを経由している」

「つまり、情報主権が消えたということ」

彼女は言った。国家は崩壊しない。制度も残る。だが、その“芯”――アイデンティティ、判断基準、独立の根拠――が外部に握られた瞬間、国家は“外形だけの建物”になる

それが、今の西日本だった。

一方、東日本は“名目的独立”を維持していた。

北海道・東北・関東は、アメリカからの技術支援と台湾経由の防衛協定で、かろうじて親米的体制を残していた。
だが、米軍の不在、経済疲弊、内部の分断により、その影響力は限定的だった。

東京では“国家再定義”の議論が始まっていた。

  • 「東日本国」設立案
  • 天皇制を保持しつつ、憲法改正による独自国防の確立
  • 西日本との“協調的境界”の設定

この動きに対し、西日本側の広域連合は声明を出した。

「地域の選択を“分離”と呼ぶのは誤り。
我々は、“生存”を選んだだけだ」

分断国家・日本が誕生した瞬間だった。

桐谷悠人は、その様子をドキュメンタリー『分断列島の黙示録』で記録していた。

「国家の崩壊は、戦車でもミサイルでも起きない。
それは、人々の“現実”が変わることで起きる
西日本の人々は、政府ではなく、目の前の電気と水と子どもの学校を信じた。
それが、国家よりも強かった」

「だが、もし国家というものに意味があるなら、
“どこに誰が属しているのか”という問いに、
私たちはいつか、もう一度答えなければならない」

2039年夏。
西日本地域には、正式な「国境線」は存在しない。
だが、以下の現象が明確に“境界”を示していた:

  • 大阪以西の行政書式に「中央政府印」が押されなくなった
  • 関ヶ原以西で自衛隊の補給物資が届かなくなった
  • 九州北部で中国製の防犯カメラが政府庁舎に設置された
  • 名古屋駅を境に、駅構内アナウンスが「ようこそ、国家境へ」と称されるようになった

それは、誰も宣言していない国家分裂だった

照屋カレンは、今や“地下ラジオ”の運営者として、東西双方に通信を飛ばし続けていた。

その日、彼女はこう放送した。

「私たちは“西日本人”でも“東日本人”でもない。
私たちは、“これからの日本”を考える者です。
歴史が断絶しても、記憶は断たれない
たとえ分断されても、声は届く。
そして――声がある限り、再びひとつになれるはずです」

その声は、地下回線を通じて届いた。
静かに、しかし確かに。

 

第13章 傀儡政権の成立と弾圧

2040年1月、大阪・旧府庁跡。

日本国の分断から半年、ついに“西日本特別行政政府”の設立が公式に宣言された。会場は厳重な警備の下、数百人規模の記者と外交関係者が招かれ、紅と金の装飾が舞台を飾っていた。

式典の中央に立ったのは、「連合地域評議会」代表にして初代“行政長官”の肩書を持つ男――大賀敬一郎(おおが・けいいちろう)。元・大阪府副知事で、かつて中国との経済協定推進を主導した人物だった。

「我々は、日本という国に“見捨てられた地域”ではない。
むしろ、日本の新しい可能性を切り拓く者たちである」

その演説の直後、壇上には中国代表団の“安全保障顧問”と称される軍服の人物が登壇し、静かに頭を下げた。

この瞬間、西日本は事実上、**“中国保護下の傀儡政権”**として国際社会に姿を現した。

西日本特別行政政府は、以下の三層構造で運営されていた。

  • 連合地域評議会:各府県代表から成る“立法機関”。だが法案の決定には「諮問委員会」の同意が必要。
  • 行政監督庁(庁長:中国籍):すべての法案・施策に対して“安全保障上の適合性”を審査。
  • 共生統制局(旧・防災省連絡室):国内治安、報道監視、教育指導を担当。

特筆すべきは「共生統制局」の構成だった。表向きは西日本人の官僚が多数を占めているが、実際の命令系統はすべて中国軍の“電子情報司令部”に直結していた。

鳴海さつきは、地下データ網を通じて次のように警告していた。

「この政権は、人間が操るのではなく、AIによって“均衡的に制御されている”
誤った抵抗や暴動は、即座にデジタル上から抹殺される」

実際、西日本の都市部では顔認証監視システム、信用スコア、デジタルIDによる「移動制限」が既に始まっていた。

・購買履歴と発言内容に基づく職業選択制限
・公的通信網への接続は「信頼等級3以上」の者のみ
・集会申請には「社会安定指数」の審査が必要

つまり、反体制的な行動は「兵士」ではなく**“コード”によって阻まれる時代**となっていた。

西日本政府は、暴力的な粛清を表向きには行っていない。
しかし実態は――“不可視の弾圧”だった。

  • 教職追放:中国の政策に反対する教育関係者は、匿名の「信頼度評価」によって任用除外。
  • 行政登録削除:特定の言動を行った市民は、住民台帳から“誤登録”として削除され、公共サービスが受けられなくなる。
  • 心理療養措置:批判的な発言をSNS上で行った者は、「精神的安定に関する行政支援」の名目で隔離施設に移送。

中でも象徴的だったのが、“教育再編”である。
小中学校では、中国語の必修化とともに、近現代史が再構成され、以下のような記述が導入された。

「沖縄統治の平和的移行は、日本国家の責任放棄に対する国際的支援であった」
「2038年の“華琉協定”は、東アジア平和秩序の礎である」

この歴史の書き換えこそが、最も強力な弾圧装置となっていた。

東京に残された“中央政府”は、国際的には引き続き「日本国政府」として扱われていた。だが、実質的には関東・東北・北海道の域内統治しかできず、「西日本問題」は外交上の“係争地域”として凍結されていた。

総理府では以下のような議論が交わされていた。

  • 「西日本の独立を認めれば国体が崩れる」
  • 「だが武力介入は支持されないし、可能でもない」
  • 「ならば、内部からの“再統合の種”を育てるべきだ

こうして、日本政府は極秘に「再連結政策室」を設置し、西日本で活動する地下市民ネットワークへの情報支援と通信援助を行う方針を定めた。

その通信経路の中心には、鳴海さつきと桐谷悠人、そして照屋カレンの構築した《YUI》があった。

西日本内部では、武装蜂起の兆しはない。
だが、**非暴力的な“情報連帯”**のネットワークが広がっていた。

組織名は《火種(ひだね)》――。

参加メンバーは学生、元公務員、医師、主婦、エンジニア、僧侶、元自衛隊員など多様だった。
共通点は「真実の記録と再共有」を目的にしていること。

  • 弾圧の記録を暗号化して国外に転送
  • 独自の歴史教材を暗号メールで配布
  • 顔認証カメラの死角マップを共有
  • 西日本の学校で使用される偽史資料の“原文”を保管

照屋カレンは、言った。

「私たちは、革命を起こすんじゃない。記憶を守るんだよ。
この時代を忘れなければ、次の時代が来るから」

この言葉は、各地で《火種ノート》という冊子に記され、手書きで回覧されるようになった。

それは、もはやレジスタンスではなかった。
文化の地下送信
だった。

2040年秋、西日本行政政府はついに“国家レベル”の行動を取った。

「東日本との外交的対話を開始する用意がある」
「“二国間の平和的共存”は、アジア全体の安定につながる」
「東京は“国内問題”として扱っているが、もはやそれは現実を否定することに等しい」

それに対し、東日本政府は声明を出す。

「西日本は、我が国の不可分の一部であり、
一時的に外部勢力の影響下にあるだけである。
その回復は、“武力によらず、言葉によって”なされるべきだ」

国家は二つに割れ、
記憶は二つに裂かれた。

だが、鳴海さつきはこう言った。

「国家が“二つに裂ける”のは、歴史ではよくあること。
でも、“記憶が一つだけ残る”ことこそが、未来への導線になる」

桐谷悠人は、記録映像を編集しながら、つぶやいた。

「この国は今、静かに負け続けている。
でも、あきらめなかった人たちの記録がある限り――
それは“敗北のままでは終わらない”」

その映像の最後に映るのは、奄美大島の小学校の黒板だった。
そこに子どもがこう書いていた。

「にほんはわかれても、こころはひとつだと、ぼくはおもう」

 

第14章 地下ネットワークとレジスタンス

2041年末──
分断日本は、国土こそ残したものの、東と西で精神の溝が深まったままだった。各地の街角では「向こうは敵」「裏切り者」といったヘイト張り紙が増え、公共空間は不寛容な空気に包まれている。そんな中でも、地下では《火種》と呼ばれる分散型のレジスタンスが、命をかけずに「失われた記憶」を守り続けていた。

《火種》は、国家も行政も越えて「文化と記憶」を共有するための市民連合だ。
その中核を支えるのが、鳴海さつきが開発した地下通信網《YUI》──「結(ゆい)」と名付けられた暗号化メッシュネットワークである。

  • ノードは全国各地の民家やカフェ、廃校の一室などに分散
  • 東日本と西日本、さらには在外邦人コミュニティを“非政府ルート”で接続
  • 政府の検閲・遮断を“回避”する多重暗号化プロトコルを採用

これにより、東西の市民は相手地域の文化資料、家族の手紙、地方の民謡、祭りの映像などを閲覧し、対話を続けられる。武器は一切使わない。情報こそが《火種》最大の“武器”だ。

12月初旬、奈良・吉野の古民家にて開催された「記憶の書き初め会」には、西日本・大阪からも、東日本・仙台からも参加者が訪れた。
それぞれが家族の古い写真や手書きのノート、方言辞書を持ち寄り、小さな書き初めに刻む。

「おらが里の雪、消えない記憶」
「ここは、わしらの柳生の里」

書き上げられた短冊はスキャンされ、即《YUI》経由で全国に配信された。
この一連の動きは「見えない交流」と呼ばれ、次第にメディアの外で噂が広まる。地域公民館前の掲示板に、「次は○○で句会を」と手書きポスターが貼られ、東西の市民がこそっと集まる場が増えていった。

しかし、分断の深さは依然として大きい。西日本・神戸出身のOL、白石美咲(28)は、東日本で育った婚約者から「大阪人は中国人だ」と暴言を浴び、破談を告げられた。
彼女は《YUI》で相談ルームに飛び込み、同じような経験を持つ西も東も関係ない数十人と、夜通し語り合った。

美咲
「怒りを伝えたら、相手はもっと憎しみ返してきた。でも、みんな泣いて聞いてくれた」

そうして集まったグループは、春に「傷ついた者たちの詩集」を自費出版。数百部が《YUI》を通じて、東西両地域に届けられた。

西日本政府は「反体制的活動」として、《火種》の主要ノードを次々に遮断し、関係者を脅迫・捜索する動きを強めた。
だが、《YUI》は単一障害点を持たないメッシュ構造ゆえ、一部が潰れても他が自動的に再結合する。さらに、新しい無線周波数帯を利用したVPNトンネルを、鳴海さつきが秘密裏に実装した。

東日本でも「不穏分子」と呼ばれる活動家に対し、警察が任意取調べや雇用剥奪を行ったが、《火種》は相談窓口を増設し、匿名での技能継承ワークショップを開催。

  • 暗号書き換え術
  • 匿名配達ルート構築
  • オフライン版ミニ図書館の設置
  • 閉鎖学校の一室を借りた「文化キャラバン」

武装せず、法律のギリギリをすり抜けながら、市民の心に灯りをともした。

分断の最深部にも、小さな「すきま風」が吹き込んでいた。

  1. 言葉の交換プロジェクト
    東日本の高校生らによる「西日本方言辞典アプリ」が開発され、県境を越えて中高生が互いの言葉を学ぶイベントが開催された。数十名が参加し、「大したもんだ」の意味を知り笑い合った。
  2. フェイクニュース検証チーム
    西日本市民が運営するSNS検証チームが、東日本系SNSで流布した憎悪投稿を分析し、共同で公開データベースを作成。「事実とは異なる」と判断した投稿を相互に取り下げさせる動きが起きた。
  3. 音楽フェスティバルの共催
    登録制でオンライン開催された「コトダマフェス」には、両地域のアマチュアミュージシャンが参加。スマホ越しに歌声を響かせ、最後に代表者同士が「記憶は誰にも奪えない」と合唱した。

こうした活動は、公式には「無視すべき余計な動き」とされる一方で、政府関係者の間にも小さな動揺を生んだ。

  • 東日本の一部若手議員が「文化交流予算」の試験的復活を提案。
  • 西日本の地方議会で「東西青少年交流補助金」が少数派ながら賛成を得た。

火種メンバーの多くは「国家の外側で動く限り、公式支援は要らない」と言うが、制度の隙間を縫う提案が生まれたことは、分断が絶対ではない証しでもあった。

2042年初頭、照屋カレンは《YUI》上で次の声明を発表した。

「私たちはまだこの国を一つにはできない。
だが、分断に抗う力は育っている
互いの記憶を消さず、声を聞き続ける限り、
私たちの灯りは消えない。
歴史が問いかけるのは、“この灯をどう手渡すか”です。」

その直後、分断の境界にあった長野―岐阜―三重の三県境地帯で、地元有志が「言葉の案内標識」を自主設置した。
日本語・西日本方言・東日本方言の三行で「ここはあなたの道」と書かれ、訪れた市民が写真を撮ってSNSに投稿した。

 

分断はまだ続く。憎しみも消えず、壁は厚い。
しかし、その壁をかすかに照らす《火種》の灯りは、小さくとも絶えず揺らめき、やがてどこかで共鳴し合う兆しを見せている。

東西双方の政府や市民が、「再び手を取り合うか否か」を、歴史が問いかけ始めたのである。

 

第15章 再統一と記憶の日本国

2042年冬、日本列島。
雪が降る東北、凍える関西のビル街、曇天の福岡湾。
分断から15年目の冬は、例年より寒さが厳しかった。

国家は依然として二つに割れたままだ。
統一の気配は表向きには見えず、東も西も、自らの正当性を主張しながら、互いを遠ざけていた。

だがその底で、小さな熱源のように燃え続けるものがあった。
それは、かつて誰かが言った“火種”のように。
消えかけても、完全には死ななかった──。

東日本の首都・東京。

高層ビル群の谷間に、かつての日章旗が舞うことはなかった。代わりに、白地に銀色の輪を描いた「東日本国旗」が掲げられる。大手新聞の一面には、東西交流の失敗を悔いる社説が並び、「分断15年目」の節目に国民の空洞化を嘆く論説が溢れていた。総理府では、統一協議に関する議題が「未検討」に分類されたまま放置されていた。議会では、西日本に関する報道が日に日に減少し、若者たちは「分かれていて当然」と話すようになっていた。駅前の地下通路では、若者たちが「西日本への旅は禁止」と刷られた通行止めの看板を撮影し、SNSで煽る。投稿には「向こうは敵国だ」「彼らは中国の手先だ」というコメントが並び、言葉の刃が交差していた。

西日本・大阪

御堂筋の街路樹の照明は、LEDの冷たい光を放つ。商店街の入口には「東日本人入域禁止」の札が誇らしげに掛かり、「われわれの誇りを守れ」と書かれていた。観光客の減少による地元経済の痛手を乗り越えるため、中国資本による再開発が急ピッチで進み、新しい「華琉ライン」の看板が市中に広がる。神戸の新行政庁舎では、中国顧問団の姿が再び見られるようになり、政府広報では「東日本からの文化攻勢に警戒せよ」という文言が紙面を飾っていた。路上には、市民同士が「裏切り者」「売国奴」と罵り合う張り紙が増え、互いの存在を脅威として認識する空気が支配していた。

各地で「精神的国境線」はさらに強固になりつつあった。かつて名古屋にあった“交流ゾーン”は消え、今では両地域の通信すらフィルターを通さなければ到達しない。

そして、人々の心にもまた、静かに壁が建てられていった。

 

同年2月、東日本の保守系ベテラン政治家・佐藤誠一(68)がテレビ討論でこう語った。

「西日本はこの国を見捨てた。我々はその責任を忘れるべきではない」

ネット上には「#分断を深める佐藤」のタグがあふれ、東側の世論が騒然とする。
だが翌日、西日本の若手活動家・白川あかね(25)はこう反論した。

「じゃああなたたちは、切り離された私たちを迎えに来たの?」

投稿は「#黙れ東老害」として拡散され、怒りがまた増幅した。

どちらも正論であり、どちらも感情的だった。
けれどその言葉の裏にあったのは、届いてほしかったのに届かなかった声
そして、理解されないことへの痛みだった。

火種の通信板には、ある匿名の投稿があった。

「あの人たちは、きっと“謝りたい”のに、やり方を知らないだけなんだと思う」

分断が続く中でも、《火種》は活動をやめていなかった。
武器は持たず、法律の隙間を縫い、教育・文化・記録の維持と共有を続ける。

  • 長野の旧郵便局を改修した《言葉の図書室》
  • 熊本の山奥に設置された《方言アーカイブ・ノード》
  • オンラインで繋がる「忘れられた記憶の学校」

照屋カレンは西日本・沖縄で、「声を失わないための朗読会」を始めていた。
水野諒は神戸で《YUI》の管理を続けながら、静かに市民から送られる詩や手記を保存していた。

「私たちは国家の裏側で、“もう一つの日本”を保管している。
いつか、誰かがそれを必要とするときのために」

同年4月。
長崎の離島にある小学校で、「東西合同作文コンクール」が匿名で行われた。
テーマは「ふるさと」。参加者は誰も所属地域を明かさず、投稿された作品はすべて仮名。

結果、最優秀賞に選ばれた詩は、こう綴られていた。

「うまく言えないけれど、
ぼくの町と、向こうの町が
ひとつだった記憶を、おばあちゃんは覚えてる」
「だから、ぼくはそれを
まだ終わってないって思いたい」

この詩はどこから届いたのか不明だった。
だが《火種》のネットワーク上では「両方の子どもの言葉にしか見えない」と話題になった。

統一は、まだ果たされない。
制度上も、社会的にも、東と西は別々の国のように動いている。
だが、その狭間にある《火種》のネットワークは、
いまもなお、記憶を渡し、文化を保存し、声をつなげている。

鳴海さつきは最後の声明で、こう記した。

「国家は形を持たなければならないけれど、
記憶は形ではなく、つながりそのものだ。
だから私たちは、“日本国”と呼ばれる何かを、
生きたまま、守り続けている」

2042年、冬。
分断された日本は、かろうじて言葉をつなぎながら、
ふたつの国でありながらも、まだ一つの問いのもとに生きている。

「私たちは、再びひとつになれるのか?」

その問いに答えるのは、もはや政治でも軍事でもない。
それは、人々の記憶と、その記憶を渡そうとする意志だけが担っている。

だから今も、《火種》は消えない。

同時に、多くの人々が再統一は遠い夢とも感じはじめていた。2つの分断国家の歴史は確実に時を重ねはじめていた。

 

 

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