- 前兆の静寂
- 裂けゆく列島
- 崩壊する予測網
- 前橋の難民キャンプ
- 水と米と沈黙
- 届かぬ援助、届かぬ声
- 非常線の内と外
- 内乱の予兆
- 列島封鎖と外資の影
- 瓦礫の経済圏
- 縮む国家、伸びる闇市
- 疾患、餓死、そして沈黙
- 消えた世代と新たな規範
- 終末政体
- 遺された言葉
第1章 前兆の静寂
空が、異様なほど静かだった。
群馬大学の講義棟の窓から見える赤城山は、雲一つない空にくっきりと浮かんでいた。春の風がまだ冷たい朝、4年生の伊東蓮(いとう・れん)は、卒業研究のプレゼンを終えたばかりの安堵と疲労で椅子にもたれかかっていた。
「今年も何事もなく春が来たな……」
そう、思っていた。
いや、そう“思い込もうとしていた”のかもしれない。ニュースでは連日、南海トラフ地震の「切迫性」が報じられ、各地の自治体で防災訓練が行われていた。だが、前橋という内陸の街に住む彼にとって、それはどこか遠い話だった。電車の遅延も、物流の停滞も、東京に近づくにつれて現実味を帯びる——そんな感覚だった。
だが、その“静寂”は、やがて破られる。
二週間後の深夜2時14分、地震が発生した。
寝静まった前橋の街が揺れた。蓮のアパートも、激しく軋んだ。テレビが倒れ、キッチンの棚から皿が飛び出す。だが、それでもまだ「ここは軽微な被害だ」と判断できる程度だった。
問題は、テレビの画面に切り替わったテロップだった。
《南海トラフ巨大地震発生 全割れ:M9.2 震源:紀伊半島沖から日向灘にかけて 広域で津波警報》
蓮の心臓が凍りついた。
「まさか……全割れって……」
スマホを手に取り、SNSを開く。だが、回線はほとんど繋がらなかった。唯一開けたのは、政府の公式アカウントが発した自動投稿だった。
《国民の皆様へ。南海トラフ地震が発生しました。津波、火災、倒壊の危険があります。冷静に行動してください。》
冷静に、などと。
朝が来る頃、テレビからはすでに凄惨な映像が流れていた。名古屋、大阪、高知、宮崎——海沿いの街が、まるで空襲の後のようだった。港には巨大な貨物船が横倒しになり、高速道路が崩落し、津波は市街地の奥深くまで到達していた。
だが、蓮が驚いたのは、その後の「復旧見通し」だった。
政府の発表によれば、電力網、水道網、鉄道、港湾、高速道路の大半が使用不能となり、主要インフラの完全復旧には「年単位の時間」がかかるとされた。発災当初に死亡が確認された人数はおよそ12万人とされていたが、それはあくまで一部地域の数字であり、実態はまだ全く掴めていない。
4月に入っても状況は悪化の一途をたどった。
前橋市内では、食料品の買い占めが始まり、スーパーの棚は空になった。物流が完全に分断され、関東地方への供給が途絶え始めたのだ。中央高速道路、東名高速、東海道新幹線が壊滅し、貨物列車も運行不能となった。
「直接の被災地じゃないのに、なんでこんなに……?」
蓮の問いに、大学の教員はただため息をつくばかりだった。
「政府の被害想定は甘すぎたんだ……あれは『最大限の備え』ではなく、『最小限の想定』だった」
5月。東京から人が流れ込んできた。
避難所はすでに満杯となり、蓮の住む前橋市にも、埼玉、東京方面からの“避難民”が押し寄せた。敷島公園には、段ボールとブルーシートの海が広がり、6万人を超える人々が食料を求めて集まった。ゴミは放置され、簡易トイレは機能せず、悪臭が辺りを包む。前橋市民との衝突も増えた。
「東京の人間に、なんで俺たちが食料を分けなきゃいけないんだよ!」
「こっちだって被災してないわけじゃねえ!」
蓮は、無力感に苛まれていた。
政府は5月中旬、ついに「全国配給制」の導入を発表した。だが、その配給網も脆弱だった。輸入港の多くが津波で壊滅し、国内の在庫はわずか数週間で底をついた。外貨で買い取ろうにも、世界も同時に危機に直面していた。アメリカも中国もロシアも、自国の食糧備蓄を死守するだけで精一杯だった。
「太平洋戦争末期以上の飢餓になるかもしれません」
ニュースの専門家の言葉が、耳に残った。
6月、前橋でも栄養失調による死亡者が出始めた。子どもと高齢者がまず倒れ、やがて感染症も流行し始めた。病院にはもう薬もなかった。医師は、ただ祈るしかなかった。
夏を目前にして、蓮は一つの決断をする。
「……俺は、記録を残す」
そうノートに書いた。大学の卒業はもうどうでもよくなっていた。だが、この異常な日々を、誰かが記録しなければいけない。国も、自治体も、マスコミも、何もできない今、自分にできることはそれしかなかった。
彼は、ノートパソコンを開き、日付と場所を書き込む。
2025年6月2日、群馬県前橋市。
「この国は、静かに崩壊しつつある——」
第2章 裂けゆく列島
2025年6月中旬、前橋市は“都市ではなくなっていた”。
赤城山の麓に広がるはずの整然とした住宅街や公共施設は、人の波に呑まれて形を変えた。特に敷島公園——緑豊かで静かな市民の憩いの場だったその地は、6万人を超える避難民によって完全に埋め尽くされ、青いシートと段ボール、糞尿の臭いと飢餓のうめき声が支配する無法地帯と化していた。
人口32万人の前橋市に、東京・埼玉方面から流れ込んだ避難民は、さらに26万人に膨れ上がった。市内全域の公園、空き地、体育館、公共施設、そして民間の駐車場にまで難民が殺到したが、敷島公園にも集結した。もはや避難ではない——都市の“侵食”である。東京、大阪、名古屋などから地方都市へそして地方へと都市難民が広がった。
蓮は、かつて友人とジョギングをしていたあの公園の光景に愕然とした。
子供が泣き叫び、大人たちは配給の列に並びながらもみ合い、時には殴り合い、奪い合う。疲れ果て、うずくまる高齢者の姿。水を求めて蛇口に群がる人々。だが、蛇口はすでに枯れていた。
トイレも溢れ返り、周辺の雑木林に“用を足す”人が後を絶たず、悪臭が風に乗って市街地まで広がった。夜になると、互いのテントに侵入し盗みを働く者もいた。通報しても、警察はほぼ機能していない。20人の警官で26万人の群衆をどう制御しろというのか。
「これはもう……暴動寸前だ」
蓮は大学のキャンパスで、数少ない残った友人と顔を見合わせた。大学もすでに閉鎖され、避難施設のひとつと化していた。
政府の配給制も、形骸化していた。4月に始まった当初は、最低限の米と缶詰、乾パンが月数回配られていたが、5月の末には物資そのものが尽き始めた。民間の備蓄は震災直後の混乱で早々に放出され、国家備蓄も当初想定よりもはるかに早く底を突いた。
多くの人が、そのとき思い出していた。
「そういえば……去年、あの“米騒動”があったな……」
2024年、日本では気候変動と国際需給の逼迫、そして投機マネーの影響で米の価格が突如2倍に跳ね上がる“米騒動”が起きた。主婦層による買い占め、SNSでの煽動、小売店のパニック売り……米不足は一時的だったが、人々の心に大きな傷を残した。
しかし、それは今や「かわいらしい混乱」にしか思えなかった。
「あのときのパニックが、今の地獄に比べればまだ“理性の範囲”だったとはな……」
と、誰かがつぶやいた。
そして米騒動のあと、人々が米の“確保”に一瞬だけ動いたものの、1年も経てば関心は薄れ、備蓄は再びゼロへと戻っていた。国の備蓄米も底をついていた。食料安全保障は政府と国民によって無視された。
加えて、今回の地震が残酷だったのは、“直接の被害”を逃れた地域にこそ、後から“破滅”がやってきたことだった。
地震発生から2カ月経っても、関西や四国、東海地方では、救助隊が一度も足を踏み入れられていない地域があった。港湾が壊滅したことで輸入が不可能になり、幹線道路も空港も使えず、孤立した都市は“絶望”と“餓死”に支配された。
その理由を、ある新聞の論評はこう表現していた。
《日本は、復興できる国ではなくなっていたのだ》
その象徴が、2024年元旦に発生した能登半島地震だった。
震度7の激震と津波が襲った能登では、多くの集落が孤立した。だが、政府の対応はあまりにも鈍かった。自衛隊の出動は限定的で、民間のボランティアに依存し、物資はほとんど届かず。2ヶ月後の3月になっても、道路は復旧せず、仮設住宅すら建設が進まなかった。
蓮は、その能登地震の特集番組を思い出していた。
「政府は能登の被災地を“見捨てた”わけではない。ただ、“何もできなかった”のだ」
その言葉が、強烈に記憶に残っていた。
すでに日本は、経済力も生産力も、人材も、社会的余裕も失い始めていた。少子高齢化、インフラ老朽化、人口減少、地方の空洞化、そして国債残高の天井知らずの増加——。それらは全て、“日常の景色”として放置されてきた問題だった。
そして今、それらが一気に前面に噴き出したのだ。
「国家が壊れるって……こういうことなんだな」
蓮は、記録ノートに震える手でそう書きつけた。
市役所には、日ごとに抗議の人波が押し寄せるようになっていた。
「配給を増やせ!」
「避難民を追い出せ!」
「水道を優先して復旧させろ!」
だが、市の幹部職員の多くはすでに市外に避難していた。市長も体調を崩して入院中という発表がなされたが、市民の誰も信じなかった。役所は“無人の空箱”と化し、事実上、統治機能は崩壊していた。
治安維持を担うべき自衛隊も、数千人規模で東海・関西方面に投入されており、群馬県にはわずかな支隊しか残されていなかった。避難民の暴徒化を抑えるため、ついに非常事態宣言が発令され、夜間の外出が禁じられた。
6月30日、蓮は敷島公園の中央に立ち、360度に広がる“青の海”を見渡した。
その時、彼は思った。
「ここはもう、日本じゃない」
風景としての日本の姿は残っている。公園、山、橋、道路。だが、そこにある“秩序”も“機能”も“信頼”も、すべて失われていた。国旗を掲げようが、憲法を唱えようが、人々の腹が満たされなければ国家は存在し得ないのだ。
ノートに、蓮はこう記した。
《国家とは、制度ではない。食料とインフラと信頼でできている。どれか一つでも崩れれば、それはもう“国家”ではない》
そして今、三つとも消えかけていた——。
第3章 崩壊する予測網
「なぜ、ここまで被害が拡大したのか——」
その問いは、今や前橋市内のあちこちで聞かれるようになっていた。蓮もまた、避難民と前橋市民の衝突が日常化した敷島公園の近くで、ふとした会話のなかにその言葉を何度も聞いた。
だが誰も、正確な答えを持っていなかった。
テレビも、ラジオも、ネットも、正しく“機能”していない。ニュースは断片的で、専門家の声は統一されず、政府の会見は要領を得ず、あらゆる情報が不確かだった。
「政府は“全割れ”の可能性をずっと想定していたはずだろ?」「“最悪のシナリオ”を前提に対策してるって言ってたじゃん」「あれ全部、嘘だったのか?」
いいや。嘘ではなかった。ただ——甘かったのだ。
内閣府はかつて、「南海トラフ巨大地震の被害想定」を何度も改訂していた。死者最大32万人、経済損失220兆円。太平洋ベルト地帯を直撃する“国難級災害”として、報告書も膨大なページ数に及んでいた。
だが、蓮は大学の研究室に残っていたそのPDFファイルを見て、愕然とした。
「ほとんどが“発災直後の対応”と“復旧モデル”ばかりだ……」
つまり、「発生した直後に、自衛隊や自治体がどう動くか」「どういう交通網が復旧の優先順位になるか」「ライフラインの応急措置はどうするか」など、想定された“想定内の災害”への対応ばかりだった。
「こんなもので、今の混乱が止められるわけがない……」
蓮は愕然としながら、さらに過去のニュースを検索していった。
そのなかに、2023年に公表された「地震発生確率の修正」があった。
《南海トラフ巨大地震の発生確率、今後30年で70~80%と政府が再計算》
この数字が人々に“備えの猶予”を感じさせてしまったのではないか?「30年以内」という言い回しが、無意識に「明日ではない」「来週ではない」という誤解を呼び、社会の緊張を緩めていたのではなかったか?
また、蓮は能登半島地震の後に報道された、災害対応の“評価報告書”にも目を通した。
そこでは、被害状況の集計の遅れ、自治体間の連携不足、避難所の不衛生、被災者名簿の混乱など、多くの教訓が書かれていた。しかし、それらは形式的な反省に留まり、構造的な問題の指摘は曖昧だった。
「つまり、また“お役所文書”にしただけだったんだな……」
そうつぶやいた蓮の手が、思わず震えた。
6月下旬、ついに「情報の崩壊」が全国的に顕在化した。
マスメディアは、事実上政府発表を垂れ流すだけとなり、独自取材はほとんど停止。放送局のスタッフも被災し、設備が破損し、通信回線が不安定となっていた。NHKですら、ローカル放送が不能となり、全国共通の一斉放送に切り替えられていた。
その放送で流れた政府広報は、もはや国民の怒りを買うだけだった。
《現在、国民の皆様には冷静な行動をお願いしております。配給体制は順次整備され、復旧作業も鋭意進行中です。共助の精神を忘れずに、秩序ある避難生活を——》
だが、現実はどうだったか。
配給は届かず、避難所は崩壊し、暴力と病気が蔓延していた。
共助の精神?——もはやそれは“綺麗事”に過ぎなかった。
一方、インターネット上では、無数の“自称現地情報”や“予言”“陰謀論”が飛び交っていた。
「この地震はアメリカがHAARPで引き起こした」「政府は実際の死者数を隠している」「食料は奪われてどこかに隠されている」「国会議員は先に国外に避難している」
誰が言ったかもわからない“声”が、人々の不安をあおり続けた。蓮の友人・江藤もそのひとりだった。
「なあ蓮、本当に政府って信用できると思うか?」
「……たぶん、できない。でも、誰ならできる?」
江藤は黙り込んだ。
7月初旬、ついに“予測の権威”だった気象庁が謝罪会見を開いた。
「今回の震源域が、想定よりも大きく広がり、同時に東海地震・東南海地震・南海地震の全域が連動した結果、エネルギーが過去最大級となりました……」
その言葉を聞いて、蓮は机を叩いた。
「結局、“想定外”って言えば済むのかよ……!」
だが現実に、その通りだった。想定外の現象が起きたとき、制度も体制も、すべてが脆弱だった。それを“想定する力”こそが、日本には欠けていた。
群馬大学の研究室の片隅に、かつての防災講義の黒板が残っていた。チョークで書かれた文字は、すでに薄くなっていたが、蓮はそこにこう記されていたのを見つけた。
《危機管理とは、「最悪を前提」に備えること》
そして、日本はそれを忘れていた。
やがて、蓮は一冊のノートをまとめ始めた。
タイトルは、『予測の死と、列島の崩壊』。
中には、過去の想定資料、行政の会見、SNSのスクリーンショット、食料配給の変遷、市民の証言、そして自分の考察を綴った。
「今この時代に、“記録”することが生き延びる以上に重要になる」
彼はそれを、今は亡き父親から教えられた。
——どんな時代にも、書き残す者がいた。
——そうしなければ、次はないからだ。
7月7日。蓮は、ノートの最初のページに改めて記す。
《この国の“想定”は、崩れた。次に崩れるのは“信頼”だ》
そして、それは——国家という仕組みそのものの、崩壊の始まりだった。
第4章 前橋の難民キャンプ
2025年7月10日——前橋市の敷島公園は、完全に“別の街”となっていた。
蓮がその日見た光景は、数か月前までこの場所が市民のジョギングコースだったことを忘れさせるに十分だった。生い茂る樹木の下、26万人を超える人々が密集し、段ボール、ブルーシート、ビニール紐で作られた無数の“仮設小屋”が、まるでスラム街のように並び立っていた。地面には食べかすや排泄物が放置され、吹き出す夏の熱気と腐臭が入り混じる。
敷島公園は、もはや“難民都市”であり、そこに流れるルールも秩序も、“前橋市”のものではなかった。
この“都市”の始まりは、政府が敷島公園を「一時避難地」として指定したことに始まる。東京、埼玉から北へと逃げてきた数十万の避難者のうち、最初に前橋に流れ着いたのが約1万人。その時点で市民の多くは「一時的な混乱」と捉えていた。ところが、その数は日を追うごとに倍増し、6月末には人口32万の前橋に26万人の避難民が流入。その半数以上がこの敷島公園に集中した。
当然、市民との軋轢は激化した。
「なぜ俺たちが、東京の奴らに食料を分けなきゃならないんだ!」
「こっちはちゃんと税金を納めてきた!そっちは何もしてこなかったくせに!」
「前橋市民を優先しろ!もう限界だ!」
蓮が住む住宅街でも、避難民に対する暴言や暴行事件が続出していた。民家の水道を勝手に使った、物置の缶詰が盗まれた、子どもに菓子パンを奪われた——そんな“些細な事件”が、憎悪の連鎖を生んだ。
一方で、難民たちにも必死の言い分があった。
「私たちは家を失ったんです!家族も!東京ではもう、水も食料もなかった!」
「群馬が無事だったから逃げてきたのに、ここでまた殺されるのか!」
東日本大震災の際、多くの被災者が礼儀正しく行動し、日本人は道徳的な国民だと世界から称賛された。しかしそれは、国家の支援や食料の供給があり、救われるという安心感があったからこそ保たれた姿だった。国家機能が失われ、飢えが現実の脅威となったとき、その誇り高き道徳は、あっという間に消え失せた。
前橋市役所の対応は、もはや手に負えていなかった。行政機能の中枢である市庁舎そのものが、6月末の暴動未遂で損壊。現在は簡易庁舎に移転し、職員の大半は避難民との接触を避けている。避難民に対する公式対応は、もっぱら自衛隊と消防の派遣部隊、そして臨時に組織された「地域連絡統制本部」が担っていた。
本部は、元市議や市民団体代表、地域医師会、商工会議所、自衛隊前橋駐屯地の関係者らで構成された、いわば“仮設政府”だった。
蓮は大学関係者として、その本部の活動を記録する許可を得ていた。かつて卒業研究で地域防災の計画策定に関わっていた経緯が認められ、物資運搬と記録係として動くことになったのだ。
その本部で、最初に出された決定は、敷島公園を「8区域に分割し、管理責任者を設ける」ことだった。統率のない難民キャンプでは食料配給やトイレ管理が不可能とされ、区域ごとに“代表”を立てることで最低限の秩序を回復しようとした。
だが、これがさらなる混乱を招く。
「誰がリーダーを決めたんだ!」
「この人は前科がある!信用できない!」
「他のエリアには水タンクが3本あるのに、うちは1本だ!不公平だ!」
区域代表は、たいてい声の大きな者、あるいは地元出身の者が担うことになったが、それに異を唱える他府県出身者が反発し、内部で暴力沙汰が起きた。ある区域では、リーダーとなった中年男性が配給品を隠して転売していたことが発覚し、怒った群衆に暴行されて病院送りになった。
こうして、難民キャンプ内では、“秩序のための組織”が“利権争いの火種”と化していった。
蓮は、ある日の記録にこう記している。
《この公園は、国家が存在しない世界の縮図だ。誰もが食を求め、声を上げ、権力を欲し、そして崩れていく。法律も、理念も、腹の虫には勝てない》
さらに深刻だったのは、市民側の“過激化”だった。
前橋市民の一部が、SNSで「難民排斥同盟」を名乗るグループを結成。敷島公園への配給に反対し、「我々の米を奪うな」「群馬は群馬の手に」というスローガンを掲げてデモを行い始めた。中には、避難民が利用する水道を封鎖したり、夜間に火炎瓶を投げ込む事件も起きていた。
蓮の友人・江藤も、徐々に態度を硬化させていた。
「蓮、お前は難民の味方か?なぜあいつらに肩入れする?」
「俺は誰の味方でもない。記録してるだけだ」
「“中立”って言葉は、今のこの状況じゃ欺瞞にしか聞こえない」
そう言い残して、江藤は地元の“防衛隊”と称する自警団に参加していった。
その夜、敷島公園の西区域で大規模な火災が発生した。
おそらくは、調理中の火が藁とビニールに燃え移ったのだろう。火は瞬く間に“仮設都市”の一角を飲み込み、寝ていた老人と子ども2人が焼死した。避難民はパニックとなり、自衛隊の到着前に数十人が公園外に逃走、周辺の住宅に侵入する事件が発生した。
翌朝、前橋市内の地元新聞はこう報じた。
《敷島公園、制御不能か——前橋、非常事態宣言再検討》
蓮は、ただその混乱を見つめていた。
「この国は、あっけなく壊れていくんだな……」
「制度も、道徳も、言葉も、すべて“物”がないと無意味なんだ」
7月15日、政府はついに「第二次非常対策本部」を設置し、自衛隊を増派。難民キャンプの区域に監視塔を設け、夜間巡回と検問が導入された。まるで、戦時下の都市防衛線のようだった。
だが、それはすでに“仮設都市”が“占領地”と見なされたことを意味していた。
蓮は、その夜のノートにこう記す。
《国家が崩壊したあと、人々は“国家ごっこ”を始める。だが、それは制度ではなく“怒り”の共有から始まる。》
《怒りの連帯が生むのは、正義ではなく暴力だ。そしてそれが、次の国家の“素材”になる——》
第5章 水と米と沈黙
2025年7月下旬、群馬県前橋市は“無音の地獄”と化していた。
人々は叫ばなくなった。嘆かなくなった。訴えなくなった。誰に怒りをぶつけても何も変わらないことを悟り、ただ黙って座り、横たわり、あるいはうずくまって時をやり過ごす。それが、生きることのすべてになっていた。
配給は、7月10日を最後に途絶えた。
政府は「輸送車両の燃料不足と治安悪化による危険性」を理由に、前橋市への定期的な物資配給を“無期限停止”と発表した。わずかに届くのは、自衛隊の車列が運んでくる乾パン数百箱と飲料水コンテナ1台分。26万人の避難民と32万人の市民——計60万人の胃袋を満たすには、あまりにも少なすぎた。
水道は止まり、井戸水は細菌汚染で使用不能となり、山間部から汲んできた水を一滴ずつ飲み合うような日々が始まった。
「水が欲しい」「米を分けてくれ」——そんな言葉は、もはや声にならず、目と仕草で交わされるだけになった。奪い合い、罵り合う余力すら、人々からは失われていた。
蓮は、記録係としての任務を続けていた。
敷島公園の8区域を歩き、各区域代表に状況を聞き取り、病人の数、死亡者の数、配給品の有無、トラブルの件数、そして“目撃したこと”をノートに書き留める。それは、統計というよりも“記録文学”に近いものになっていた。
7月21日の記録には、こうある。
《第3区域では、5歳の女児が衰弱死。母親は食料を探して3日間帰らず。周囲の者が発見したときにはすでに硬直。遺体は段ボールに包まれ、木陰に安置されたまま放置。防疫上問題あり。だが、埋葬できる者はいない》
《第5区域で脱水症状による集団倒れこみ。50名規模。日中40度の気温。仮設シェルター内の熱が逃げず、体温調節不能。対応した自衛隊員1名が嘔吐。》
《第7区域、路上に座ったまま死亡していた中年男性。2日経っても遺体はそのまま。衛生状態悪化。近隣住人が腐臭を訴えるも、対応なし》
そして、記録の最後に蓮は書く。
《この沈黙は、“音”ではなく、“制度の終わり”の音だ》
同時に、感染症の拡大が始まっていた。
最初に確認されたのは、いわゆる「急性下痢性疾患」だった。水が不衛生であり、手洗いも困難な環境では、ごく当たり前のように蔓延する。だが、それは始まりに過ぎなかった。発熱、嘔吐、咳。避難民の一部が持ち込んだ病原菌が、劣悪な衛生環境で拡散され、ついには「インフルエンザ型の感染性肺炎」が急増。
敷島公園で最初に立ち上げられた“簡易診療所”の医師は、限界を訴えた。
「薬がない。器具がない。人員も防護服もない。これはもう、医療とは呼べない」
それでも医師や看護師たちは、トリアージ用の赤・黄・緑のリストバンドを作り、生死の線引きを続けた。だが、日が経つごとに“赤”ばかりが増え、ついにはバンドの在庫が尽き、“死に近い者は声を出さず、動かない者は寝かせておけ”という指示が口伝で回されるようになった。
市民の間にも緊張が走った。
「難民が病気を持ち込んだ!」「あの公園は感染源だ!」「封鎖しろ!焼き払え!」
市内では“浄化運動”を掲げるグループが発生。自警団は武器を持ち始め、自作の“検問所”を設置して避難民の流出を阻止し、逆に避難民側も防衛線を張り、棒や鉄パイプで武装しはじめた。
蓮は、双方の間に立つことを試みた。
「もう、敵とか味方とか、そういう段階じゃない……」
だが、その声を聞く者はほとんどいなかった。言葉は、すでに誰の耳にも届かなくなっていた。
つい最近まで、私たちは海外から届く「ガザの飢餓」の映像に心を痛めながらも、それを遠い国の出来事として受け止めていた。だが今や、日本各地に「ガザ地区」と呼ぶべき惨状が無数に現れ、その光景はSNSを通じて世界中へと発信された。
7月30日、蓮の友人・江藤が倒れた。
高熱と咳、そして倦怠感。最初は熱中症かと思われたが、簡易診療所で「肺炎の可能性」と判断された。だが、抗生物質は枯渇しており、輸液も行えず、せめて水分だけはと懸命に支えたが——8月1日未明、江藤は息を引き取った。
「蓮……記録、残せよ……」
それが、最後の言葉だった。
その夜、蓮はノートにこう書いた。
《人が死ぬたび、私はそれを“書いて”済ませている。だが、書いて済むことなど、本当は何一つない。私は傍観者か? いや、書くことでしか自分を許せないだけなのだ》
日常の中の非常事態ではなく、非常事態の中の日常が続いていた。
誰もが痩せこけ、互いの顔を見ず、目を合わせず、ただ“自分の次に”死ぬ誰かを眺めながら、その順番が回ってこないことを祈っていた。そう、“祈る”という行為だけが、まだ人間であることを証明していた。
ある朝、蓮は1人の少年と出会った。
公園の片隅で、古いバケツに水を入れて、なにかを撹拌していた。蓮が近づくと、少年は警戒せずに言った。
「お米、ふやかしてるの。昨日、もらったやつ」
「ひとりで食べるのか?」
「ううん。お母さんと、お姉ちゃんがいる。病気で動けないから、先にあげるの」
バケツの中には、わずかな米粒と、葉っぱのかけらが浮いていた。
「それ、ちゃんと洗ったか?」
「……雨水だから、大丈夫って言ってた」
蓮は、何も言えなかった。
何を教える資格が自分にあるというのか。自分はただ、“書いてるだけ”なのに。
8月3日、前橋市内で同時多発的な火災が発生。
その後の調査で、複数の倉庫が放火されていたことが明らかになる。避難民の一部が「備蓄があるはず」と噂される場所を襲撃し、それを知った市民側が報復に動いたのだ。自衛隊が出動したが、鎮圧には至らず、両者の緊張は臨界点に達していた。
そのとき——市長代行として任命された地域連絡統制本部の代表が、次のような声明を出した。
《この市を守るため、区域外からの流入を全面的に停止する。違反者は、敵と見なす》
“敵”という言葉が、公的文書に記された初めての瞬間だった。
蓮は、その夜のノートにこう書いた。
《国家が沈黙し、人々も沈黙し、今、最後に沈黙するのは“倫理”だ。人間の限界は、声を失ったときではない。正義を語れなくなったときに訪れる》
《水と米と沈黙——その三つでこの国は、ゆっくりと終わっていく》
第6章 届かぬ援助、届かぬ声
前橋の朝は、もはや“始まり”ではなかった。
2025年8月5日、夜が明ける頃、蓮は大学の屋上に立ち、東の空を見つめていた。だがそこに希望はなかった。濁った太陽が灰色の空気に滲んでいるだけで、風は悪臭を運び、遠くで犬が死体をあさる声が聞こえてくる。
救援物資は来なかった。
通信は繋がらなかった。
そして何より——人々の声が、もう届かなかった。
「援助が来る」という幻想は、もはや誰の口からも語られなかった。
政府は数日前、「現在の輸送インフラでは、北関東以北への物資輸送は原則不可能」と正式に表明。物資の約8割を担っていた東京湾、名古屋港、大阪港が未復旧であり、トラックも列車も燃料も確保できず、自衛隊の車両ですら限界に近いとされた。
蓮は、関係者から入手した内部通達文書のコピーを見ながら呟いた。
「これは……事実上の“見捨て宣言”じゃないか」
物資が来ない。人も来ない。自分たちで生き残れ——ということだった。
同時に、通信網も壊滅していた。
携帯電話はつながらず、公衆電話も多くが使用不能。インターネット回線は不安定で、情報は断片的なSNS投稿か、数日遅れの紙のビラが頼りとなっていた。テレビ放送はNHKの災害チャンネルだけがかろうじて続いていたが、内容は“励ましと注意喚起”ばかりで、現場の人間には何の役にも立たなかった。
「電波も、文字も、今はただの飾りに過ぎないな……」
蓮は記録ノートに書いた。
《人が死ぬとき、声が届かないというのはこういうことだ。“叫び”が“文字”にならず、ただ消える。それが死の本質だとすれば、今ここで何万人もが、すでに“社会的死”を迎えている》
そして、葬送の概念が崩壊し始めていた。
8月に入ってから、死亡者の数は急激に増加していた。熱中症、感染症、餓死、自殺——死因は様々だったが、共通していたのは「死んだ者を葬る余裕がない」ことだった。
敷島公園の各区域では、遺体がブルーシートに包まれ、木陰や公園の一角に並べられた。防腐処置もなく、棺もなく、名前を記録する係もいなかった。最初のうちは、近隣の寺院が焼香を行っていたが、8月4日以降、火葬設備が限界を迎え、遺体の引き取りを停止。
「土に埋めてください。ただし、浅すぎると犬や野生動物が掘り返します」
市の通達は、もはや“行政”というより“お願い”だった。
蓮は大学構内に、即席の“慰霊ノート”を設置した。
誰が死んだか、いつ死んだか、名前がわかれば書く。顔を知らなくても、遺された物を置く。古びた学生食堂の一角に、数十冊のノートが積まれていった。そこには、誰にも届かない声が並んでいた。
「父へ。最後に水を飲ませてあげられずごめんなさい」
「母ちゃん、どこ行ったの?まだ僕ここにいるよ」
「田中さん、あの時パンくれてありがとう。もう会えないんですね」
「全部、全部、遅すぎた。でも、書くしかできないから書くね」
蓮は、自分自身の“声”もそこに残した。
《声は、電波を介しても、届かないことがある。声が届くというのは、相手が生きていて、聞く意志があり、受け止める体力があるときだけだ》
《今、国も社会も人々も、聞く意志を失っている。だから声が届かないのではない。“聞けなくなっている”のだ》
8月7日、敷島公園西区域の土手に、数十体の遺体が無造作に積まれているのが発見された。
目撃者の話によれば、区域代表が「病気が広がるよりは」と判断し、死者をいったん一箇所に集めたのだという。火葬も埋葬もできず、「山」となったその場所には、名札も、慰霊も、線香もなかった。
その映像が誰かのスマホに記録され、SNSにアップされた。短時間だけネットが回復した瞬間だったのだろう。やがてその投稿は全国の避難地域に拡散され、かすかな波紋を呼んだ。
だが、政府はその件に関して一切のコメントを出さなかった。
「今、被災地の現場ごとに独自の判断がなされている。すべてに行政が介入することは不可能である」
それが、内閣広報官の唯一の発言だった。
蓮は記録ノートに書いた。
《今この国には、“死者の名簿”が存在しない。数万人が死んでも、それは“数字”としても数えられない。死者とは、数えられることで社会に復帰する。今は、ただ“消えた人”が、消えたままでいる》
《届かぬ援助、届かぬ声。その“間”にあるのが“国家”だったはずだ。今、それはどこにもない》
疫病、戦争、自然災害――そのたびに「飢餓」は、日本、中国、ヨーロッパを問わず、繰り返し人類を襲ってきた。自然災害や人災によって引き起こされる食料危機こそが、大量死の最大の要因であった。それでも人間は歴史から学ぶことができず、教訓を忘れては、同じ「地獄」を何度でも繰り返す。
そして8月9日、蓮は初めて“声をあげる側”になった。
慰霊ノートが放火された。
何者かが深夜に大学に侵入し、記録ノートや花束を焼き、供えられた遺品を散らかしていった。火はすぐに消されたが、焦げ跡と黒煙の匂いが、大学の食堂に残った。
蓮は、崩れたノートを拾い集めながら、泣いていた。
静かに、嗚咽ではなく、ただ目から水がこぼれるような涙だった。
「なぜ、記録すら許されないのか」
その日の夜、蓮はノートにこう記した。
《記録すらも“敵”とされる。言葉を残すことが、何かを否定することになる社会。それが今の日本だ》
《届かぬ援助。届かぬ声。届かぬ記録。では、いったい何が届くのだ?》
答えは、なかった。
ただ、沈黙だけが、今日もまた蓮の耳を塞いでいた。
第7章 非常線の内と外
2025年8月15日、群馬県前橋市は“壁の中”となった。
市内を取り囲むように設けられた臨時検問所。旧国道17号線、上武道路、県道4号、関越自動車道のインターチェンジ——それらすべてにバリケードと監視塔が設置され、通過には通行証が必要となった。
“非常線”の名のもとに、前橋は外界と切り離された。
きっかけは、8月10日に起きた流入事件だった。
高崎方面からおよそ4000人規模の避難民集団が、食料と水を求めて前橋市に向かって進行。中山道を徒歩で移動し、午後には前橋郊外の富士見町に到達。住民の通報を受けて自衛隊が出動し、交渉の末、そのうち2000人が敷島公園に収容されたが、残る2000人は「満員」を理由に追い返された。
「ここにしか希望がないんだ!」
「子供が死にそうなんです!お願いします!」
叫び声も泣き声も、制服の壁を超えることはなかった。やがて群衆は反発し、警備線に突撃しようとしたため、催涙ガスと警棒による強制排除が行われた。
この事件は、市民の怒りをさらに煽る結果となった。
「もう入れるな!ここも限界だ!」
「前橋を守れ!」
「難民は東京へ帰れ!」
SNSでは「前橋防衛線」「地元優先」「群馬は群馬で立て直す」といったハッシュタグが飛び交い、各地に自警団が結成されていった。彼らは政府の指示を超え、独自に“区域防衛”を宣言し始めた。旧駐車場やトンネル出入り口に鉄パイプと車を並べて封鎖。外部からの侵入者には警告を与え、それでも進入すれば“威嚇”として物理的制圧を実行した。
蓮は、前橋市内を移動するたびに、こうした“線”に遭遇した。
警察ではない。自衛隊でもない。名もなき市民が、銃の代わりにバールやスコップを手に取り、出入口を守る——いや、“閉ざす”。
「蓮、これが限界だよ。もう入れる余地なんて、どこにもない」
そう語ったのは、自警団に参加した元高校教師の男だった。
「俺はな、30年教壇に立ってきた。生徒に“平和の尊さ”を教えてきたつもりだ。でも今、あいつらを守るには、“外を拒む”しかないってことを学んだよ」
「それが正義ですか?」
「違う。でも、選ばなきゃならないんだよ。“正しさ”より“残ること”を」
非常線の内側と外側では、人の価値が変わっていた。
中にいれば“市民”、外にいれば“流民”。生きる権利が切り分けられ、物資配給も、診療所の利用も、死者の処理さえも、その線によって分断された。
特に敷島公園の住人たちは、“内”にいながらも“外”と見なされる曖昧な立場に置かれ、しばしば物資配給の対象から除外された。区域代表たちは連日市役所と交渉したが、「前橋市民の分を削ってまで難民に配る余裕はない」という一点張りだった。
「じゃあ俺たちは“人間未満”ってことか?」
そう吐き捨てた難民代表の一人は、翌日から所在不明になった。誰も探そうとしなかった。
蓮は大学の研究室にこもりながら、その“線”の変化を記録していた。
壁は、最初から物理的に存在していたのではない。
「物がなくなったとき、まず人が変わり、言葉が変わり、そして境界が生まれる。非常線とは、“言葉が意味をなくした場所”に立ち上がる」
彼はそう記し、地図に新しい色を加えた。
赤:完全封鎖区域
黄:自警団活動区域
青:限定的通行可能区域
灰:通信・物流完全遮断区域
前橋の市街地は、赤と黄の点滅する炎のような境界に取り囲まれ、もはや“都市”ではなかった。蓮の記録は、もはや地誌ではなく“戦地報告”に近いものとなっていた。
8月20日、市役所前で騒乱が起きた。
市民グループと難民代表が、配給量の再配分を巡って衝突。口論から殴り合いになり、自警団が“秩序維持”の名目で難民側を排除。その際、木の棒で頭を打たれた男性が死亡。現場は一時騒然となったが、警察は出動せず、自衛隊も“治安権限は有していない”と発表。
「殺されたのに、“事件”じゃないのか……」
蓮は、その光景に立ち尽くしていた。
ニュースにもならない死。それが、線の“外”の運命だった。
数日後、蓮はついに記録ノートの1冊目を埋め尽くした。
表紙には、焼けたような汚れがこびりつき、ところどころに血の跡も残っていた。
彼は、最後のページにこう記した。
《非常線は物理ではない。“心の線”が先に引かれ、やがて街を割る。誰かを助けたいと思わなくなった瞬間、その人は“内”に生き、“外”を見捨てたことになる》
《だが、“内”にいるからといって、安全ではない。“内”に残された者ほど、より深く“沈んでいく”——私はそれを、毎日見ている》
8月25日。
前橋市内に、大型トラックが1台だけ入った。数か月ぶりの県外ナンバーだった。周囲は騒然となり、自警団が道路を封鎖しようとしたが、荷台に積まれたのは——棺だった。
木製の粗末な棺が数十台。中には、他都市から回収された遺体が詰められ、これから“山積みになった死者たち”と同様に、集団火葬される予定だったという。
その棺に、人々は食料や水ではなく、“希望”を期待していた。
「もし遺体が届くのなら、誰かがまだ“国”として記録しているのではないか」
だが、それも幻想だった。
蓮はトラックの運転手に尋ねた。
「これ、どこからの指示で?」
「さあ……俺たち、民間だし。金もらったから来ただけ」
国家は関与していなかった。市民が、自費で、死者を“整理”するために棺を買い、民間運送業者に依頼したのだった。
その夜、蓮は2冊目のノートを開き、1ページ目にこう記す。
《死者が運ばれてくる街。それが、今の“内”の現実だ。だが、その死者が、どこから来たのかすら、誰も知らない》
《非常線とは、“死者にすら所属がない”ということだ。死すら、もはや共有されない》
第8章 内乱の予兆
2025年8月27日。
前橋市は、もはや「都市」ではなかった。
行政機能は崩れ、警察は見かけなくなり、夜の街は無音ではなく、武器の音と叫び声が支配していた。
それは、内乱ではない。まだ「戦争」ではなかった。
だが誰の目にも明らかだった——これは、「内戦前夜」だと。
蓮がそれをはっきりと感じたのは、敷島公園の北端、通称「第6区域」で起きた事件がきっかけだった。
8月25日の深夜、区域を統括していたリーダー格の男性が、顔に布を巻いた数人の集団に襲撃され、配給倉庫ごと焼き討ちにあった。犯人は難民ではなかった。目撃者によれば、彼らは「市内の自警団関係者」とされ、装備は明らかに市民のレベルを超えていた。
鉄パイプ、防刃ベスト、煙幕、短波無線。
それは、もはや“警戒”ではなく、“軍事”だった。
自警団——かつては市民の「自己防衛」として歓迎された組織は、8月下旬に入り、急速に分化し始めていた。温和な住民たちが互助精神でつくった防衛班と、過激思想に染まった排外主義の「過激自警派」、さらには物資や権力を握ることを目的とした「利益派」へと分裂。
それぞれが、自らの理屈で「前橋の治安を守る」と宣言していた。
だが現実は逆だった。
治安が崩れていたのは、彼らの“正義”がぶつかり合っていたからだった。
「夜間外出禁止」「区域をまたぐ移動には許可証が必要」「見知らぬ者を見かけたら通報を」——
こうした“自主ルール”が、いつの間にか市全体に広まり、市民も難民もすべて“管理”される対象となった。
蓮の記録ノートには、こんな記述がある。
《正義が3つあれば、そこに3つの検問が生まれる。そして、通れる道は1本も残らない》
市内の商業倉庫への襲撃事件が相次いだのも、この時期だった。
8月28日未明、前橋問屋町の食品流通センターが焼き払われた。2週間前まで保護されていた場所だったが、自警団の一派が「倉庫内に“偏った配給”が行われていた」と主張し、強行突入。残っていたわずかな乾物や保存食を奪い合い、そのまま倉庫に火が放たれた。
燃え上がる炎の向こうで、蓮はただ立ち尽くしていた。
「これが、俺たちの“秩序の終わり方”なのか……」
8月30日、前橋市街に“旗”が現れた。
南部の旧文京地区に、ある集団が自らの勢力範囲を示すため、交差点に巨大な布を吊るした。黒い背景に赤い稲妻のような紋章。彼らは自らを「護国戦線」と称し、「国家不在の時代に、新たな日本人の秩序を築く」と宣言。
構成員は元警官、元自衛官、市民兵に志願した若者ら。彼らは独自の規律を持ち、食料配給と警備、街頭演説、さらには簡易軍事訓練まで行っていた。
その“登場”は、他の自警団にも刺激を与え、前橋は複数の“準武装勢力”がにらみ合う「無政府圏」と化した。
「これが、戦争じゃないなら何なんだ」
蓮の友人で、大学院に進んでいた元防災研究者・嶋崎は言った。
「災害が国家を壊し、空白を作った。そして今、その空白を埋めようとしている者が武器を持った。それが今の“日本”だよ」
「まだ、時間はあるか?」
「ないな。これはもう、止まらない。誰かが引き金を引くのを、ただ待ってるだけだ」
8月31日、自警団間で初の「交戦」が起きた。
旧前橋西中学校に拠点を置いていた防衛隊と、別派閥の“秩序維持団”が、倉庫管理権を巡って衝突。結果、数名が打撲・刺傷。非武装の難民1名が流れ弾に当たって死亡。これが公式に“戦闘”として記録された最初の事例となる。
事件後、臨時市庁舎が出したのは、たった1枚の張り紙だった。
《今後、武装団体による施設利用を禁じる。発見次第、自衛隊への通報対象とする》
だが、自衛隊はもはや治安介入を行っていなかった。彼らの任務は「災害支援と物資管理」に限定されており、武力鎮圧には動かない。
つまり——誰も止めない。止める者が、いない。
蓮は、自分の記録の意味を問い直し始めていた。
《もはや、このノートは“証言”ではない。未来に届くべき“報告”でもない。これは、自分自身が“正気である”と証明するための最後の作業だ》
彼は眠れぬ夜、静まり返った大学の研究室で、自分に問いかけ続けた。
「これは、本当に“災害”の延長なのか?」
「これはもう、“戦争”じゃないのか?」
9月1日。
前橋市に、初めて“外部の勢力”が接触を図ってきた。
群馬県高崎市の一部地域で、自主的に治安を回復した民間グループが、前橋との「情報共有」と「避難民の再受け入れ」を申し出たのだ。内容は、敷島公園にいる高崎出身者300人を引き取り、彼らの分の食料支援を前橋側に提供するという「交換協定」だった。
だが、この提案は却下された。
「今、前橋に“他者”を招き入れる余裕はない。たとえ善意であっても、それは“新たな境界線”を崩すことになる」
これが、臨時庁舎の代表の判断だった。
蓮は、ここに“国家”というものの喪失を見た。
《国家とは、通貨でも法律でもない。“橋を架ける意志”だ。それが消えたとき、都市は孤立し、やがて自分自身と戦い始める》
夜。敷島公園の西区域で、また一つ火の手が上がった。
どこかの派閥による報復だったのか。誰の犯行かはわからなかった。だが、蓮はそれを見て悟った。
これはもう、始まっている。
内乱とは、宣言ではなく、“静かに始まるもの”なのだと。
その夜、蓮はこう記す。
《内乱とは、銃声から始まるのではない。情報が絶たれ、共感が絶え、秩序が内側から腐ったとき、気がつけば始まっている》
《前橋は、もはや“街”ではない。ここは、誰もが自分の“正義”を武器にする“戦場”になった》
第9章 列島封鎖と外資の影
2025年9月5日、朝。
蓮は、大学の研究室から見える赤城山の輪郭を眺めていた。空は晴れていた。だが、青さには透明感がなく、空気は鈍く、喉を刺す微かな異臭が風に混じっていた。
かつて日本列島を南北に貫いていた鉄道網も、高速道路も、航空路線も、今ではただの「記憶」だった。通信は切れ、物流は寸断され、地方都市はそれぞれ“島”と化していた。
その“分断”に、ついに名前がついた。
「列島封鎖」
もともと、それは政府の公式用語ではなかった。報道機関も、政治家もその言葉を避けた。だが、現実には、政府が“戦略的に優先すべき地域”を選別し始めたことが露見していた。港湾の復旧、幹線道路の確保、空港の限定再稼働——それらが、東日本の北部や内陸部を“後回し”にする政策として明らかになっていたのだ。
「人員・資源の限界により、重点支援地域を段階的に再配置する」
官房長官のこの発言が、その証明だった。
その日、蓮は旧群馬県庁舎跡で開催された「地域防衛会議」に記録係として立ち会っていた。
出席者は、前橋市臨時庁舎、各自警団代表、自衛隊地域連絡部、医療団体、有力事業者、そして民間物流会社の元幹部ら。
そこで示されたのは、あまりに静かで冷徹な“現実”だった。
——北関東(群馬・栃木・茨城)は、国の支援対象地域から「実質的に外されている」。
・ 輸送ルートは完全に遮断され、海上輸送・空輸いずれも見込めない。
・ 中央政府は「地元主導の復旧」を暗黙に求めている。
・ 一部地域で、“代替支援”として外資系企業が独自支援を行っている。
この最後の一文が、場を凍りつかせた。
「外資が……? どういう意味だ?」
誰かがそう口にした。
「中国系の企業体が、長野県のある自治体に発電設備と医薬品を提供しました。見返りとして、農地と水源地の一部利用権が与えられたと聞いています」
「北海道でも、ロシア企業が冷凍倉庫の修復を支援。見返りに港湾施設の使用権を5年間付与する契約が、非公式に交わされたと……」
「沖縄でも、アジア系のNPOが難民支援の名目で拠点を築いてます。何が入ってるかはわからない」
日本の主権は、崩れていた。
いや、主権という“余裕”がなくなっていた。
国家が国家であるために必要な“統治能力”が消えれば、その空白には必ず誰かが入り込む。
蓮はその夜、記録ノートにこう記した。
《国家の崩壊は、旗を降ろすことで起きるのではない。“外国の支援を拒めなくなる”ことで静かに始まる》
《今、日本は誰に主権を渡したのかすら、理解していない》
前橋市内にも、こうした“外資の影”がじわじわと近づいていた。
9月8日、地域連絡統制本部にある申し出が届く。
「私たちは、米国系人道支援団体『HHO(Human Hope Organization)』です。中立の立場から、前橋市に食料・医療品・水処理装置を提供する準備があります」
「受け入れ条件として、配布管理の実務権限と、安全な活動区域の確保をご要望します」
この文面は、事実上の「入植要請」に近かった。
市の幹部のひとりは怒りをあらわにした。
「我々はまだ日本人だぞ!アメリカに土下座して物資を恵んでもらうのか!」
「だが、もう他に手段がないんだ……。このままでは死ぬぞ、俺たちは」
議論は深夜まで続き、結論は出なかった。
蓮は、ふと10年前の自分の記憶を思い出していた。
——社会科の授業で、「戦後の日本は、アメリカの支援で立ち直った」と教わった。
——その時、先生はこう言った。「支援を受けても、心は独立していなければならない」と。
その言葉を、いま誰が思い出しているだろうか。
9月10日、前橋市内の一部で不穏な動きがあった。
「前橋独立管理区画」を名乗る一派が、旧南橘小学校を拠点に、独自の通貨制度と物資配給体制を構築。なんと、食料をアジア系NPOを通じて調達していたことが判明した。
「俺たちはもう、中央にも県にも頼らない。現実を見ろ。日本はもう、“主権”なんか持ってないんだよ」
代表者は、かつての地方議員だった男だった。
その言葉を聞いた蓮は、記録にこう書いた。
《列島は今、“国家の形式”を保ったまま、実質的に分裂を始めている。》
《中央政府の地図では、まだ日本は一つ。だが、現場の地図では、もう何十もの“ミニ国家”が生まれている》
そして——ついに“最後の象徴”が、崩れた。
9月12日、ついに天皇陛下が「長期静養」の名のもとに、首都圏外の某施設に移動したことが報道された。詳細は伏せられたが、実質的には「首都の空洞化」と同義だった。
「もう、中央は維持できない」
この報道に、多くの人々が画面の前で膝をついた。
蓮は大学のホールで、避難民にそのニュースを読み上げた。
誰も驚かなかった。
「とうとう、そこまで来たか」と言う者もいなかった。
ただ、誰も反応しなかったのだ。
怒る気力も、嘆く余裕も、もう誰の中にも残っていなかった。
その夜、蓮はこう記す。
《国旗を降ろさずとも、国歌を忘れずとも、人々の中に“国家”が存在しなくなれば、それはもう国家ではない》
《国家の終わりとは、“見捨てられた”という実感が、国民の中に染み込んでいく過程のことだ》
《そして今、日本列島の全域が、それぞれに“孤島”となり、やがて“他国の影”に照らされていく》
第10章 瓦礫の経済圏
2025年9月15日、前橋市に「物の値段」が戻ってきた。
それは、希望の兆しではなかった。
むしろ、「貨幣という幻想が完全に終わった」ことを意味していた。
「この缶詰、玉ねぎ5個と交換できますか?」
「乾電池と水1リットル。どちらが価値が高いと思いますか?」
「いいや、情報の方が貴重だ。ラジオがあるなら米を出す」
大学の正門前に広がった即席市場には、ブルーシートの上に所持品を並べる者たちの姿があった。誰もが財布を持っていたが、誰一人として“お金”を使っていなかった。
日本円は、ただの紙切れだった。
国家が食料と燃料の流通を失った瞬間、円は価値を失った。中央銀行の言葉は届かず、ATMは停止し、キャッシュレス決済など夢のまた夢。商店のレジは閉ざされ、コンビニは打ち壊され、残ったのは“交換”という最も原始的な経済だった。
蓮は、研究ノートにこう書いた。
《経済とは、信用である。信用とは、未来を信じること。今、人々には未来がない》
《だから、紙幣は燃やされ、米袋が価値を持ち、情報や噂が通貨の代わりとなる》
敷島公園では、すでに「物々交換専用区域」が設けられていた。
各区域代表がそれぞれ出品を行い、欲しい物の条件を提示する。共通の通貨はなく、交換は“当事者間の納得”によって成立する。最初は食料品や医薬品が中心だったが、やがて燃料、服、電池、包帯、さらにはタバコや酒も“資産”とみなされるようになった。
誰もが気づいていた。
——戦前の闇市が、形を変えて復活したのだ。
だが、それは単なる物のやり取りでは終わらなかった。
やがて、物々交換を“仲介”する者が現れた。
「水と乾パンのセットを、米と交換したい人を探します。手数料として5%分だけいただきます」
「盗品は取り扱いません。取引証明書を発行します」
最初に“公証人”を名乗ったのは、元保険会社勤務の男だった。
彼の仕事は正確で、信頼を集め、数週間のうちに“彼の仲介がある取引”が市場の7割を占めるようになった。
次に現れたのは、「前橋ポイント」だった。
それは、ある商工会系の団体が作成した地域限定通貨で、印刷された紙にQRコードとサインが記載されている。1ポイント=乾パン1個分を基準に、徐々に取引が広まり始めた。
もちろん、それは法的な通貨ではなかった。
だが、現実として流通した。人々が“信じれば”経済は成立する。
「これが、新しい“円”だとしたら?」
蓮は誰にともなく問いかけた。
隣にいた、以前は大学事務職員だった中年女性が答えた。
「国家が通貨を作る時代は終わったのよ。これからは“共同体”が通貨を持つの」
「その共同体が崩れたら?」
「その時はまた、新しい通貨を作る。人間は、価値の幻想がないと生きていけない生き物だから」
その言葉は、奇妙に重く蓮の心に残った。
9月20日、ついに「武装市場」が誕生した。
南橘中学校跡にできたこの市場は、「護国戦線」と名乗る勢力が運営。彼らは独自の通貨「護国券」を発行し、米や水、医薬品、さらには簡易兵器までも取り扱っていた。
銃弾は1発=200護国券。
ナイフ=150。
ボディアーマー=1500。
人命——取引不可(建前上は)。
この市場は“秩序を保つため”と称されていたが、実態は武装勢力の資金調達であり、前橋市内の通貨・経済圏は急速に分裂していった。
同時期、東部地域では「農村連合取引所」が設立された。
高崎・前橋周辺の農家が合同で立ち上げたこの市場は、農産物を“労働力”と交換する独自モデルを採用していた。野菜や穀物の代わりに、田畑の手入れや家屋の修繕を行う人手を提供する“労働型通貨”の形だ。
この地域では、「信用取引証」が発行され、過去の労働履歴をもとに“信用度”が記録される。信用度の高い者は、事前に農作物を受け取ることができた。
前橋市内だけで、すでに4種類以上の“通貨”が並行流通していた。
蓮は地図を開き、それぞれの流通圏に色をつけた。
赤=護国券エリア
緑=農村連合圏
青=前橋ポイント圏
黄=完全物々交換区域
灰=無秩序地帯(盗難・暴力・略奪が常態化)
《今、この地域には「円」が4種類ある——それぞれ、異なる“価値観”の下に》
《通貨とは、価値ではない。“何を信じるか”の地図である。だからこそ今、人々は通貨を分け、自分の正義を測っている》
だが、そんな“新しい秩序”も、不安定だった。
黒市には偽札が出回り、護国券を大量偽造した男が処刑されたと噂された。農村連合では労働力不足により、物価の交換レートが急上昇。前橋ポイントは紙資源の枯渇で新規発行が止まり、流通が縮小。
蓮は、その不安定さをノートに記す。
《“新しい経済”は、秩序ではなく“競争”の始まりでしかなかった。国家という“巨大な審判”が消えたとき、経済は“戦場のルール”へと変貌する》
9月末。
黒市で、こんな張り紙が掲げられた。
《今日から、灯油の取引は“身体価値”で換算されます。若年者優遇。老人は後回し》
それは、ただの個人の書き込みだったかもしれない。だが、誰もそれを“間違いだ”と否定しなかった。
その夜、蓮は記録にこう残した。
《人の命もまた、“価格”を持つ時代に入った。戦争ではなく災害だったはずなのに、なぜここまで来たのか——その問いを、誰も発しなくなった》
《貨幣が壊れるとき、人は“人間”ではなくなる。そのことを、俺たちはようやく知った》
第11章 縮む国家、伸びる闇市
2025年10月3日。
前橋市の中心部は、かつての「行政都市」としての顔を完全に失っていた。
県庁は閉鎖されたまま、市庁舎は民間団体と自警団の共有施設に変わり、警察署は無人化。道路標識は塗りつぶされ、交差点にはそれぞれの「支配者」が看板を掲げていた。
《南部治安連合》
《農村自治協議会》
《護国戦線・第3防衛区》
その隙間に、手書きの看板が立っていた。
《本日、米3合=抗生物質1錠》《水1L=バッテリー20分分》
国家は消え、闇市が支配していた。
「政府って、今どこにあるの?」
避難民の少年が蓮にそう尋ねたとき、蓮は答えられなかった。
確かに、首相官邸は存在していた。毎週、官房長官の会見はネット上で流れていた。だがその言葉が、前橋に何かをもたらすことはなかった。配給も支援も法も秩序も届かない言葉は、ただ“音”でしかなかった。
少年は続けた。
「じゃあ、今は誰がこの国を動かしてるの?」
蓮は静かに、大学の正門前に並ぶ青いテントの列を指差した。
「今、この国を動かしてるのは、“売る人”だよ」
黒市——それは、もはや“裏”ではなく“表”だった。
敷島公園の南側には、毎日数百人が集まる巨大な市場が常設されていた。ブルーシートの屋台、鉄パイプの即席店舗、物々交換所、信用証明屋、護衛付きの物資回収所。そこでは、日常のすべてが“取引”として存在していた。
食料、水、薬、情報、そして人間までも。
子どもを“労働者”として斡旋する業者が現れ、女性の“安全な宿泊場所”を提供する名目で性の取引が始まり、老人は「負担者」として排除された。
蓮は、自分の記録ノートにこう書いた。
《国家とは、“人権”を保証するシステムだった。だが今、人権は通貨よりも軽い》
《今の前橋には、法もある。だがそれは“売ることができる”法律だ。正義とは、“買える者のための装飾”になった》
10月5日、自衛隊の偵察ドローンが黒市上空で撃墜された。
護国戦線が「無断の軍事飛行は主権侵害である」と主張。その主張はSNSで瞬く間に拡散され、多くの市民が「前橋の治安は前橋が守るべき」と同調した。
「主権」という言葉が、国家ではなく“地域勢力”によって使われた瞬間だった。
そして政府は、その件について一切コメントしなかった。
ある行政学者は後日こう語った。
「国家が縮むとき、その“空白”に現れるのは“法律”ではない。“暴力を制御できる者”だ」
前橋市内では、いまや通貨も法も“勢力”ごとに異なっていた。
南部の商業地帯では、護国戦線による「護国券」が流通し、中央駅跡地周辺では農村連合の「労働信用票」が用いられ、敷島公園付近では「物々交換+前橋ポイント」が主流だった。
蓮は、前橋の勢力図を毎日更新することが日課となっていた。
そしてそこに記すのは、行政区画ではなく、「通貨」「武装力」「食料自給率」「医療供給源」「治安リスクレベル」だった。
その地図は、もはや“都市地図”ではなく、“戦術地図”だった。
「俺たち、もう“国民”じゃないんだな」
ある老人が黒市の片隅でつぶやいた。
「違う。“購買者”だよ。物が買えるなら人間扱いされる。買えなければ、野良犬と同じだ」
そしてこの都市に、“新しい国家”の種子が蒔かれ始めていた。
10月8日、前橋北部の旧中学校を拠点とした自警団連合が、「前橋市民統合委員会」の設立を宣言した。彼らは、「市民の安全・流通・衛生・教育の自主管理」を掲げ、独自の教育プログラムと地域清掃・診療を開始。
通貨は「統合券」。
徴税は行わず、“労働奉仕”による貢献記録で住民権を与える。
組織図は自治体を模しており、“市長”にあたる代表、“教育長”“保健責任者”“治安管理責任者”が明文化されていた。
蓮はそれを見て、驚くよりも、むしろ納得していた。
《人間は“国家の形”をつくる生き物なのだ。どれだけ壊れても、混沌のなかに新たな“秩序”を立ち上げようとする》
《国家は、旗ではなく“機能”だったのだ。水を配る者、情報を届ける者、命を守る者——それを担う者の周囲に、国家は生まれる》
しかし、その国家は“平和な国家”ではなかった。
前橋北部の統合委員会に対し、護国戦線が警告を発した。
「複数の国家が都市内に存在することは、混乱と内乱を生む。速やかに統一管理のもとに入れ」
それは事実上の“併合要求”だった。
統合委員会はこれを拒否。護国戦線は即座に農村地域との物資交換を停止。前橋内に「経済封鎖」が生じた。
蓮はその夜の記録にこう記した。
《国家が分裂するとき、“戦争”とは宣言されない。それは、物資が止まり、言葉が止まり、人が消えることではじまる》
《この都市には、いくつの“国家”があるのか。誰がその境界を決めたのか。誰がその旗を許したのか》
《わかっているのは、ただ一つ——本物の国家は、もうここにはいないということだけだ》
第12章 疾患、餓死、そして沈黙
2025年10月20日。前橋の夜に、冷気が忍び込んできた。
夏の炎熱と飢餓に喘いでいた人々の身体は、もうすでに限界だった。栄養を失い、免疫を失い、そして希望すら削られたまま、ただ次の“死”の波を待っているようだった。
その波は、確実に来た。
それは風の形で。
咳の連鎖として。
夜の吐息の中で。
そして何より——誰にも気づかれない静けさの中で。
蓮が最初に異変を感じたのは、敷島公園第2区域の診療テントを訪れた日だった。
「もう、聴診器を使っていません」
医師はそう言った。
「何の意味もないからです。治せない音を聞いても、虚しさが増すだけです」
そこにあったのは、“診療”ではなかった。
ただ、死を“見届ける”という行為だった。
その日、蓮が記録した死者は7名。
翌日は14名。
次の週には、平均で一日40人を超えるようになった。
「疾患」と「餓死」——それは、どちらも日常の中に溶け込んでいた。
感染症といっても名前はなかった。風邪と肺炎の中間、インフルエンザに似ているが、もっと緩慢に肺を蝕み、呼吸を浅くしていく。それは“風土病”のように人々を弱らせ、治療も予防もなかった。
一方で、餓死はより静かだった。
食料の供給が完全に途絶えてから半月、前橋市内では本格的な“身体の消耗”が始まっていた。もはや空腹に苦しむ者すら減り、誰もが食べることよりも“座る場所”を探していた。
「食べたい」ではなく、「座りたい」と言う者が増えた。
それは、内臓の停止を意味していた。
病院は閉鎖されたまま、薬局は既に空、救急車は燃料切れで放置され、葬儀屋も存在しなかった。
葬送は、“土をかける”ことと同義になった。
その土も、人手不足と冬の硬化によって使えなくなり、やがて“ブルーシートの包み”を並べていく作業が日常化した。
蓮は、大学の一角に“死者の記録部屋”を設けた。
黒板に日付と人数、遺体の位置、状態、名前(分かれば)を記す。学生だった時の教室が、今では死の台帳を管理する場所になっていた。
ある日、彼は黒板の横に、つぶやくようにチョークで書いた。
《今日は、まだ泣いている人を見た。まだ、人間でいられる》
だが、やがて涙は消えた。
泣く者は減り、見送る者はおらず、死は「風景」になった。
生き残る者のほうが少数派となり、「助かる」ことが非常事態になっていった。
死が当たり前になりすぎて、誰も“意味”を与えなくなった。
10月末、蓮は精神的に限界を感じていた。
ノートには、記録と一緒に意味不明な文章が混ざるようになった。
《水が言葉のように冷たい》
《人の顔が透けて見える》
《数を数えると泣けてくる。もうやめてくれ》
そして、次のページにはこう書かれていた。
《誰か、意味をくれ。死が“意味のないまま”続くのが、いちばんこわい》
11月1日、ついに大学内でも死亡者が出た。
元教授の女性が、研究室で冷たくなっているのが発見された。蓮がその部屋を訪れたとき、机の上には一冊の哲学書と、紅茶のカップが置かれていた。
カップは空だった。
だが、本のページは、きれいに「希望」という章で開かれていた。
蓮は、しばらくそこから動けなかった。
彼女の死に、どんな意味も付けたくなかった。
葬送が困難となったため、ついに“死体焼却区域”が設置された。
それは、以前の駐車場跡地だった。
木材とガソリンを集め、遺体を積み重ね、炎を上げる。
誰も弔わない。焼却作業は交代制の労働奉仕として運用されていた。
「焼く人間に、死を悼む資格はない。ただ、義務がある」
それが、焼却作業員たちの合言葉だった。
蓮は、夜にだけ記録を書いた。
昼間は、記録することすら無意味に思えた。
だが、夜になると、自分の中で“言葉”だけが残った。
《死を記録することが、命を支える。書き残すことでしか、この地獄を“誰か”に伝える術がない》
《私が生きているのは、ただ書くためだ》
11月3日、雪が降った。
予想よりも早い初雪だった。
まだ防寒具の足りていない避難所では、凍死者が出始めた。
寝袋も毛布もない。燃料はもう尽きている。段ボールとブルーシートで風を防げるはずもなかった。
「今年の冬は、去年より寒いらしいよ」
その情報がどこから出たのか、誰も知らなかった。だが、その言葉は、確かな“死の宣告”として、人々に突き刺さった。
蓮は、自分の“記録”の限界を悟った。
書いても意味がない。
誰も読まない。
誰にも届かない。
だが、それでも書く。
それが、自分が「まだ生きている」証だから。
その夜、蓮はこう記した。
《人間は、言葉を失ったとき、“生物”になる。》
《だが、私はまだ人間でいたい。たとえ誰も聞かなくても、誰も答えなくても、この地獄の中に、“言葉”だけは残したい》
《明日死ぬとしても、今日の死を記録する——それが、俺に残された唯一の意味だ》
第13章 消えた世代と新たな規範
太平洋戦争では数百万の命が失われ、敗戦を迎えたものの国家体制は維持された。しかし南海トラフ地震では、数百万の命が失われても勝敗の概念すら存在せず、国家は崩壊した。国民の生命を保証できなくなった国家は、その時点で契約を破棄し、内側から瓦解したのである。
2025年11月10日、前橋に「年齢」という概念が消えた。
正確に言えば、それは“意味を持たなくなった”ということだった。
高齢者の多くはこの1カ月で凍死・餓死・病死し、中年層は疲労と責任に潰され、自殺か過労死で次々に倒れた。
残ったのは、若者たちだった。
だがその若者たちも、“かつての日本人”ではなかった。
蓮は大学の廃墟となった食堂に集まる少年少女たちを眺めていた。
彼らの目は鋭く、恐れるよりも“値踏み”をするような眼差しで、周囲を見ていた。
彼らは礼儀を知らず、年長者を敬せず、道徳を求めず、ただ“生き延びる術”だけを信じていた。
それは非難されるべきことではなかった。
彼らには、誰も教えてくれる者がいなかった。
彼らには、もう親も教師も法も存在しなかった。
「名前、あるの?」
蓮が尋ねたとき、少年は眉ひとつ動かさずこう答えた。
「呼ばれ方はあったけど、今は“番号”で呼ばれてる」
「番号?」
「俺は“3”って呼ばれてる。逃げた順番が3番目だったから」
彼は、かつて埼玉県草加市の学習塾で暮らしていた。災害後、塾に取り残された15人の子供たちは、3日間を自力で耐えたのち、教師が死亡。その後、互いを“番号”で呼ぶことで生存順位を決めた。
「名前は思い出すと死にたくなるんだよ。番号のほうがいい。人じゃなくなるから」
蓮は何も言えなかった。
敷島公園では今、10代による“共同体”がいくつか形成されていた。
彼らは武器も持たず、言葉も少ないが、極めて高い“適応能力”を示していた。
互いの体温で暖を取り、廃材とビニールを組み合わせて小屋を作り、水のろ過装置を手製し、配給所ではなく“ゴミの山”から栄養価のある物を探した。
彼らには、倫理がなかった。
だが、規律はあった。
「3日連続で食い逃げしたやつは、出禁」
「体調悪いやつは、近づくな。病気をうつすな」
「嘘ついたら、水はもらえない」
「泣いたら一日“無視”される」
それは、誰かが作ったルールではない。
“必要だから”自然に定着した、生き残りのための掟だった。
そこに善悪はなかった。
あるのは「生存率の高さ」で決まる、冷徹な選別だけだった。
「この子たちは、“法なき社会”で育つ第一世代になるかもしれない」
大学に残っていた元社会学教授が、蓮にそう語った。
「彼らは戦争も災害も超えて、“意味の崩壊”の中で生き延びている。だから彼らには、もはや“物語”がいらない。必要なのは、明日を越える技術だけだ」
「倫理や家族、愛情は?」
「それは、“資源”がある世界の贅沢だよ。今の日本にはもうない」
かつての日本の社会基盤——教育、家庭、公共、メディア、宗教、企業——それらすべてがこの1年で消滅した。
残ったのは、口伝と現場判断、暴力と直感だった。
蓮は記録ノートに、こう記した。
《今ここには、“法”ではなく“習慣”がある。習慣とは、道徳ではない。“役に立つから続けられる”だけだ》
《子どもたちは、正しいことを求めない。ただ、死なないルールを積み上げていく》
11月15日、前橋駅跡地に“少年だけの市場”が立った。
名もない中学生たちが管理し、商品は薬、タバコ、ガラクタ、アルミ缶。
通貨は「ゼロ紙幣」と呼ばれる独自の券で、1枚=作業奉仕1時間と交換可能。
ルールは単純。
・年齢制限あり(18歳以下)
・暴力禁止(破った者は共同体から永久追放)
・盗みは1回まで許す(2回目は名前が消される)
この市場はわずか1週間で、100人以上の若者を吸収し、南部の自警団よりも統率が取れていると噂された。
“倫理なき共同体”が、“秩序ある国家”を模倣し始めていた。
「こいつらが、大人になるころには、日本はどうなってるんだろうな……」
蓮のかすれた問いに、近くにいた少年が答えた。
「もう“日本”じゃないかもな。でも、俺らが作り直すって話、してるよ。名前は決めてないけど」
その目には、わずかに“火”があった。
希望ではない。夢でもない。
ただ、「次の世界を作るのは自分たちだ」という、生き残った者の“責任”だった。
蓮は記録ノートに、こう書いた。
《“消えた世代”——それは、死んだ者だけを指さない。もう未来を語れなくなった者、何も遺せなかった者、何を守ればいいのか忘れてしまった者もまた、“消えた”のだ》
《そして、今ここにあるのは、“新たな規範”で動く人々。正義も罪もなく、ただ“必要”が秩序を形づくっている》
同日夜。
蓮は、食料を求めて敷島公園をさまよっていたとき、小さな男の子に声をかけられた。
「おじさん、これ、いる?」
差し出されたのは、紙くずのような千円札だった。
「それ、もう使えないよ」と蓮が答えると、少年は言った。
「ううん。“燃える”から、あったかいよ」
彼にとって、千円札は「燃料」だった。
その使い方に、誰も異を唱えられなかった。
その夜、蓮はこう書いた。
《日本円が、あたためる紙になったとき——国も、時代も、すでに終わっていた》
《だが、その火のそばにいた子どもは、まだ笑っていた。それだけが、今夜のすべてだった》
第14章 終末政体
2025年11月25日。
前橋市臨時庁舎に、ある“招待状”が届いた。
差出人は「北関東広域安定連合」——聞き慣れない名前だった。だがその実態は、すでに群馬・栃木・埼玉北部の9つの“武装自治体”が合同で設立した、事実上の「地域政府」だった。
連合はこう宣言していた。
《現在の中央政府には、危機に対処する機能も意志もない。したがって、私たちは地域の生存と秩序維持のため、独立した準統治体制を構築する》
その文章の末尾には、こう続いていた。
《貴地区も、速やかに統合参加を検討されたい。応答期限は12月5日まで》
ついに、「国家」が“複数化”した。
表向き、東京にはまだ内閣が存在していた。形式的には議会もあるし、防衛庁も、省庁も、紙の上ではすべての制度が残っていた。
だが、それらは「過去の名前」でしかなかった。
前橋臨時庁舎では、その日以降、議論が続いた。
「我々が“北関東連合”に加盟すれば、それは事実上、中央からの離脱を意味する」
「だが、今の中央に支援を求めて届いたことが一度でもあったか?」
「東京が我々を見捨てたという“事実”だけが現実なのだ」
ある自警団代表は言った。
「国家は、意思ではない。“機能”だ。支援が来ない国に、もう“国”という呼称はない」
一方、政府からも声明が出された。
《全国的な復興計画は進行中であり、地方の独自的自治は国の方針に反するものである。国民には冷静な判断を求める》
——誰も信じなかった。
前橋には、もう半年以上“政府”から何も届いていない。
その言葉に重みはなかった。ただ、文字が表示されているというだけだった。
蓮は大学の屋上から、夜の前橋市街を見下ろしていた。
街には明かりがなかった。
見えるのは、灯油のランプと、たまに遠くで燃え上がる火事の光だけ。
それでも、そこに“秩序”があった。
それは、法に基づくものではない。
合意に基づくものでもない。
ただ、誰かが武装し、誰かが守り、誰かが流通を維持し、誰かが“戦わなかった”から保たれている秩序だった。
《これは、終末の国家だ》
蓮はそう記した。
《かつて“国”と呼ばれたものの亡骸の上に、人々が自らの拠点を築き直し始めている》
《日本という物語は終わった。その終わり方は爆発ではなく、“溶解”だった》
12月1日、北関東広域安定連合が「地域憲章案」を発表した。
その骨子は以下の通りだった:
・全構成自治体は、互いの内政に干渉しない
・共通通貨の導入(物理トークン制)
・共通の治安協定を発効し、域内の武力を一定の規則下に置く
・外部からの武装勢力・外国勢力の介入を拒否する
表向きは“自治連携”であり、中央との完全な断絶ではなかった。
だが、それは実質的な「地方連邦国家」の成立を意味していた。
蓮は、ある高齢の元政治学者の話を思い出していた。
「国家とは、“死に方”にこそその性格が出るんだよ。日本はおそらく、爆発ではなく、静かに分裂する。誰もそれに気づかないまま、気づいたときには地図が変わっている」
今、その予言が現実になりつつあった。
前橋市は、12月3日、北関東連合への「条件付き参加」を決定した。
条件はひとつ。
《前橋市民に対する配給・医療支援を、今後3カ月以内に保証すること》
これは、交渉ではなく、“命綱”だった。
連合は承認した。
こうして、前橋は「日本国」から「北関東連合」へと、静かに組み込まれた。
国籍は変わらない。憲法も変わっていない。
だが、行政も通貨も治安も、すでに別の“体制”の中にあった。
蓮はノートに、こう書いた。
《国家が終わるとき、人々は気づかない。それは戦車が来るのでもなく、憲法が燃やされるのでもなく、“支援が来なくなる”ことで始まる》
《そして次に現れるのは、“機能する場所”への忠誠心だ。人々は、言葉ではなく、飯をくれる者に従う》
12月5日、連合の旗が前橋市庁舎に掲げられた。
白地に黒い六角形。中心に「連」という文字。
誰もそれを歓迎しなかった。
だが、誰も反対もしなかった。
それが、“今あるもの”だったからだ。
同じ日、蓮は一通のメールを受け取った。
群馬大学の元研究仲間で、栃木に避難していた男からだった。
《東京では、まだ「国土再生基本法」とか言って、国の枠組みを維持しようとしてる。でももう誰も従ってない。
新潟は中国系企業の支援を受けて、独自通貨作ってるって噂。福岡は“共栄市民連盟”っていう政体に変わってる。
なあ、蓮——
この国は、あと何本に分かれるんだろうな》
蓮は、返信をしなかった。
ただ、自分のノートにこう記した。
《日本列島は、今や“連邦的分裂国家”となった。それでも誰もその言葉を使わない。なぜなら、使った瞬間、“国”が終わるからだ》
《だが、実態はもう誰の目にも明らかだ。これは、終末の政体だ。旧来の国家は名を残しながら、内側から別の国家に置き換えられている》
《国家とは、名前ではない。“支配と配分”の構造だ。今それは、別の手にある》
第15章 遺された言葉
年末を迎えても、南海トラフ地震直後の津波や地震による死亡者数は正確には把握できておらず、数十万規模に達していると推測されるにとどまった。しかし事態をさらに悪化させたのは、被災直後の犠牲者数をはるかに超える病死や餓死などの災害関連死であり、その規模は数百万にも及ぶ可能性があった。今後さらに何千万人が犠牲になるかも見当がつかなかった。
政府が想定した2025年の南海トラフ地震の被害は、死者29万人、災害関連死5万2,000人にすぎず、津波や地震によって近代国家が突如として機能不全に陥る可能性については一切言及されていなかった。インフラの崩壊や食料危機が広域に長期化し、数百万人もの災害関連死を生むような事態は想定外であり、ましてや国家そのものが崩壊する事態など、想像の域を出なかった。
2025年12月31日、午前6時20分。
夜が明ける直前の前橋は、いつもより静かだった。
空気は澄みきっていて、雪は音を立てずに降っていた。
街は白く覆われ、黒く焼け焦げた瓦礫や腐った看板さえ、凍てついた膜で包まれていた。静寂が、すべての罪と痛みを隠そうとしていた。
蓮は、大学の旧講義棟にある、暖房の効かない薄暗い教室で、最後の記録を始めていた。
14冊目のノート。
鉛筆の芯は、5ミリしか残っていない。
指先は凍え、ページをめくるたびに紙が裂けそうだった。
だが、蓮は書き続けた。
それが、自分に残された唯一の生きる理由だったから。
数日前、敷島公園の仮設診療所で出会った看護師が、こう言っていた。
「蓮さん、あなたはまだ“希望”を信じてるんですか?」
その時、蓮は即答できなかった。
だが、今なら言える。
「信じていない。ただ、“証拠”は遺したいだけだ」と。
それは、生存の記録ではなかった。
ましてや告発でも、批判でもない。
ただ、ひとりの人間が、終わりのなかで「在った」ということを、誰かに伝えたかった。
この1年——
都市は沈黙した。
国家は溶けた。
家族は散った。
正義は値札に変わり、死は日常となった。
それでも——人は言葉をやめなかった。
蓮が設けた“記録の部屋”には、今も数人の学生が出入りしていた。
かつての講義室を改造したその空間は、「言葉の避難所」として小さな評判を呼び、死者の名前、行き場を失った日記、誰にも出せなかった手紙、拾われた新聞の切れ端などが、ゆっくりと積み重なっていた。
「ねえ、これ……読んでくれる?」
ある少女が、破れかけた紙を差し出してきた。
そこには、たった一行だけ、こう書かれていた。
《お父さん、私を見てる?》
蓮は頷いた。
「見るよ。ここに、書き写しておくから」
この部屋には、死者の声が残っていた。
声にならなかった言葉が、遺された紙片として、いくつも、いくつも、重ねられていた。
それは、誰に届けるでもない祈りであり、叫びだった。
あるいは、ただのつぶやきかもしれなかった。
——だが、それでもいい。
それらを集めて束ねることが、自分に残された仕事だった。
12月30日。
北関東連合が前橋市内に配布した通達には、次のように書かれていた。
《2026年より、前橋市は“北関東安定区・第三分区”として再登録されます》
《住民は所定の“登録識別票”を持って、各自の所属区域で生存申告を行ってください》
《未申告者は、翌月以降の配給対象外となります》
——国家は名を変え、手続きを残した。
だが、その中に“人間”の姿はなかった。
蓮は、かすれた文字で記録を綴る。
《国家が名を変えても、人々が死んだままなら、それは“再生”ではない》
《再登録ではなく、再生するには、“物語”が必要だ》
《人間がまた、人間として扱われるための、言葉の地図が——》
12月31日、午後8時。
かつての大学講堂には、20人ほどの若者たちが集まっていた。
彼らは、蓮の呼びかけに応じた「最後の夜の記録会」の参加者だった。
灯りは、ろうそく1本。
暖房はない。
椅子は残っておらず、みな床に座っていた。
蓮は、小さな声でこう語った。
「この一年、俺たちは“何か”を失い続けてきた。
人、国、制度、未来、信頼、祈り。
でも、それでも……一つだけ残っているものがあると思う」
皆が静かに耳を傾ける。
「——それは、“書く”という行為だ。
俺たちはまだ、何かを記すことができる。
そしてそれは、誰かに届かなくても、“在った”という証になる。
誰かが見てくれるかもしれない。
そうじゃなくても、ここに“在った”ことは、残せるんだ」
その言葉の後、少女が手を挙げた。
「じゃあ、私も書いていいですか?」
蓮はうなずいた。
少女は紙切れを手に取り、鉛筆でこう書いた。
《私は、ここにいました。名前は、いまはないけど——生きてました》
それは、最初の“復元”だった。
かつて失われた名前、家族、物語、国家、そして「私」という主体。
それが、言葉によって、ほんの少しだけ蘇った。
蓮はノートの最後のページに、こう記す。
《もし誰かが、これを読むことがあるなら、どうか知ってほしい》
《ここに“日本”という国があり、“前橋”という都市があり、そして“蓮”という人間がいた》
《人々は、死んだ。だが、言葉は生きていた。言葉だけが、生き延びた》
《だから、あなたがこれを読んでいるということは、もう一度、物語が始まっているということだ》
《このノートは、終わりではない。“種”だ》
《未来へ向けて蒔かれた、たったひとつの種だ》